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ムーディー・ブルース(The Moody Blues)は、1964年にデビューしたイギリスのプログレッシブ・ロック・バンド。世代的にはビートルズやローリング・ストーンズ、ザ・フー等とほとんど変わらず、ロック黎明期に誕生した古参バンドのひとつである。 ==経歴== 1964年5月、バーミンガムでムーディー・ブルースとして初のライブを行う〔The Moody Blues : AllMusic - Biography by Bruce Eder 〕。当時のメンバーはレイ・トーマス、マイク・ピンダー、グレアム・エッジ、デニー・レイン、クリント・ワーウィックの5人。デビュー最初期はR&B系グループとして活動しており、「ゴー・ナウ!」が1965年に全英1位・全米10位の大ヒットを記録するが、1966年春にクリント・ワーウィックが脱退し、同年にはリード・ボーカルとギターを担当していたデニー・レインも脱退〔。レインは後にポール・マッカートニー率いるウイングスに加入する。 メンバー2人の脱退に伴い、バンドはジョン・ロッジとジャスティン・ヘイワードを迎え入れて、メロトロンやシンセサイザーなどの電子楽器を駆使した前衛的な音楽性に変わっていく。1967年発表の2ndアルバム『デイズ・オブ・フューチャー・パスト』では、1960年代の段階でオーケストラとの競演で新しいロックのスタイルを築き上げるなど、プログレッシブ・ロックというジャンルを生み出した草分け的な存在と言える。 その後は、1968年『失われたコードを求めて』、1969年『夢幻』、1971年『童夢』といったほとんどのアルバムが英米で大ヒットを記録。ピンク・フロイド、キング・クリムゾン、イエス、EL&P、ジェネシス等と共に1960〜70年代のプログレッシブ・ロック・ムーブメントを支えた。かつてジミー・ペイジは「本当にプログレッシブなバンドは、ピンク・フロイドとムーディー・ブルースだけだ」と語っていた。 また、1967年に発売されたシングル「サテンの夜」は、発売当時は全英19位のヒットだったが、1972年にラジオ局から人気に火がつき、全英9位・全米2位・カナダ1位の大ヒットを記録し、彼らの代表曲となった。 1972年にアルバム『セヴンス・ソジャーン』を発表してからは、メンバー個人のソロ・アルバム製作や、アーティスト自身のレコード・レーベルでは先駆けとなる「スレッショルド・レコード」(『夢幻』の原題から名称がとられた)の運営などが活動の中心となり、バンド活動が停滞する。この時期はプログレッシブ・ロックの最盛期であり、この頃にほとんど活動を行っていなかった。1974年4月には、アメリカのカリフォルニア州に移住していたマイク・ピンダーが、家族との生活を優先させるためバンドを一度脱退する〔Interview With Mike Pinder - classicbands.com - 2013年3月3日閲覧〕。 1977年、かつて1969年に開催されたロイヤル・アルバート・ホール公演のライブ音源とスタジオ・アウトテイク5曲を収録したアルバム『Caught Live +5』がリリースされ、同アルバムの売り上げが好調だったことから1978年に正式に再結成され〔Caught Live +5 - The Moody Blues : AllMusic - Review by Bruce Eder〕、マイク・ピンダーもバンドに復帰した〔。しかし、再結成第1弾アルバム『新世界の曙』録音途中で、マイク・ピンダーは続くツアー参加に難色を示し、録音途中でアルバム製作から抜け、プロモーションビデオやアルバム用写真撮影にも不参加。それに伴い、長年、6人目のムーディーブルースとまで言われたプロデューサーのトニ・ークラークも「マイクがいないムーディー・ブルースをプロデュースする意味がない」という理由で抜け、同じく長年録音エンジニアを担当していたデレク・バーナルズが、生オーケストラを使ったアレンジを加え、最終的なアレンジが完成した。こうして難題が続いた『新世界の曙』は、リリースまでこぎつけたが、続くツアーには、オーディションの結果、元イエスのパトリック・モラーツが参加した。〔Patrick Moraz - A Biography - patrickmoraz.com〕その後、1981年発表のアルバム『魂の叫び』のレコーディングに際し、マイク・ピンダーから「レコーディングにだけは参加したい」との連絡がメンバーに入ったが、バンドはマイク・ピンダーの参加を認めず、パトリック・モラーツを正式なメンバーとし、『魂の叫び』のレコーディングを行う。この『魂の叫び』は、9年ぶりに全米1位を獲得〔The Moody Blues - Awards : AllMusic 〕、復活を印象付けた。『魂の叫び』録音でのグレアム・エッジのコメントが残っている。「イーグルスのホテル・カリフォルニアのようなドラム演奏をしたかった」実際、グレアム・エッジのドラム演奏は、過去のアルバムを通し、もっともダイナミックでパワフルな演奏を残している。 1980年代以降はプログレッシブ・ロックの衰退もあり、ポップな大衆的音楽に変化していった。1986年にはトニー・ヴィスコンティをプロデューサーに迎え、ポップ・ナンバー「Your Wildest Dreams」が全米9位を記録し、久々のヒットとなった。 1991年、パトリック・モラーツが脱退〔。 2002年12月、レイ・トーマスが今後のツアーには参加しない意志を明かし〔The Moody Blues 2003 - to present 〕、バンドの正式メンバーはジャスティン・ヘイワード、ジョン・ロッジ、グレアム・エッジの3人となる。 幾多のメンバー・チェンジや音楽性の変化などを経て、現在も活動中である。1970年前後の当時ほど現在日本では知名度や人気はあまり高くないが、ロック史の上で見れば重要な意味を持つバンドである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ムーディー・ブルース」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 The Moody Blues 」があります。 スポンサード リンク
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