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メアリー・アデレード・オブ・ケンブリッジ : ミニ英和和英辞書
メアリー・アデレード・オブ・ケンブリッジ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

メアリー・アデレード・オブ・ケンブリッジ : ウィキペディア日本語版
メアリー・アデレード・オブ・ケンブリッジ[ちょうおん]

メアリー・アデレード・オブ・ケンブリッジPrincess Mary Adelaide of Cambridge, 全名:Mary Adelaide Wilhelmina Elizabeth, 1833年11月27日 - 1897年10月27日)は、ヴュルテンベルクの王族・テック公フランツ・パウルの妻。
==生涯==
メアリー・アデレードは、ケンブリッジ公アドルファスジョージ3世の七男)と妃オーガスタの末子として、ハノーファーで生まれた。彼女は、父がハノーファー王国副王であったため、幼年時代をハノーファーで過ごした。食べることが大好きで食べ過ぎの傾向にあったメアリー・アデレードはすぐに肥満体となり、『ふとっちょのメアリー』(Fat Mary)というあだ名が付けられた。
1837年に伯父ウィリアム4世が崩御すると、替わって即位したのは従姉のケント公ヴィクトリアだった。しかしサリカ法では女子の王位継承を認めないため、ハノーファー王位は伯父・カンバーランド公アーネスト・オーガスタス(ハノーファー王エルンスト・アウグスト)が継承することとなった。ハノーファーでの役目を終えたケンブリッジ公一家は帰国し、ケンジントン宮殿に居を構えた。
30歳になったメアリー・アデレードは未だ独身であった。彼女自身の魅力のなさと、王族としての収入が少ないことが、結婚適齢期を逃す要素となった。しかしまた、彼女の王族としての生まれが、王族以外の男性との結婚を妨げてもいた。従姉ヴィクトリア女王は彼女を哀れみ、政略結婚の相手を探そうとしていた。
結局、ヴュルテンベルク王家出身のテック公フランツ・パウルというふさわしい候補者が見つかった。彼は公爵ではあったがメアリー・アデレードよりランクの低い相手だった。彼は両親が貴賤結婚だったためにヴュルテンベルク王位継承権がないが、公爵の称号と王家の血筋を持っていた。彼以外に候補者は現れず、メアリー・アデレードはフランツとの結婚を決めた。2人は1866年6月12日、キュー教会で挙式した。
メアリー・アデレードは夫に『殿下』(His Royal Highness)の称号を与えるよう従姉ヴィクトリア女王に要請したが、却下された。その代わりに1887年のヴィクトリア女王即位50周年の式典の際に『殿下』(Highness)の称号が与えられた。
テック公夫妻はロンドンに住むよりも、イギリスより物価の安い外国暮らしを選んだ。これはメアリー・アデレードがテック公家の唯一の稼ぎ頭であるせいであった。彼女は王族として、年5,000ポンドの年金を受け取っていた。また、メアリー・アデレードの母オーガスタは補充の収入として娘に収入を分けてやっていた。ヴィクトリア女王は、収入を増やして欲しいという要請を片っ端から拒否した。しかし、女王はテック公家に住居としてケンジントン宮殿の数室、また、田舎の別荘としてホワイト・ロッジ荘を与えていたのである。
これらの慎ましやかな収入にもかかわらず、メアリー・アデレードは派手好みで、パーティーや高価な食事に衣類の購入、外国での休暇など浪費に暇がなかった。たちまち借金がふくれあがり、テック公一家は債権者を避けるために1883年にイギリスを出国しなければならなかった。一家はフィレンツェへ旅行し、ドイツオーストリアでは縁者の元に滞在した。初め彼らはホーエンシュタイン伯夫妻という偽名で旅行した。しかし、メアリー・アデレードがよりよいサービスを受けたいがために、王族の身分を明かしたのだった。
テック公一家は1885年にイギリスへ帰国し、ホワイト・ロッジ荘に住んだ。メアリー・アデレードは慈善活動、特に児童福祉活動の支援者となった。
1891年、メアリー・アデレードは長女ヴィクトリア・メアリー(愛称はメイ、May)を、プリンス・オブ・ウェールズ(のちのエドワード7世)の息子たちの一人に嫁がせたいと熱望した。他方では、ヴィクトリア女王は、未来のイギリス国王となる孫息子の妃にはイギリス生まれの、もちろん王家の血を引くランクの低くない貴族女性を選びたいと考えていた。
メアリー・アデレードの娘は、その判断基準を満たしていた。ヴィクトリア女王の承認を得て、ヴィクトリア・メアリーは王位継承権第2位のクラレンス公アルバート・ヴィクターと婚約した。それからわずか6週間後にクラレンス公は急死するが、ヴィクトリア女王はヴィクトリア・メアリーに好意を持っており、彼女をクラレンス公の次弟ヨーク公ジョージ(のちのジョージ5世)と婚約させた。2人は1893年に結婚した。
ヴィクトリア・メアリーが王家の最高位ともいうべき、王位継承予定者と結婚したことで、テック公家に劇的に幸運がやってきた。テック公家の娘が未来の王妃となったのである。不幸なことにメアリー・アデレードは、娘が王妃となるのを見ることなく、1897年にホワイト・ロッジ荘で亡くなった。遺体はウィンザー城内のセント・ジョージ礼拝堂に埋葬された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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