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メアリー・アン・リー : ミニ英和和英辞書
メアリー・アン・リー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

メアリー・アン・リー : ウィキペディア日本語版
メアリー・アン・リー[ちょうおん]

メアリー・アン・リーMary Ann Lee1824年7月 - 1899年1月25日)は、アメリカ合衆国バレエダンサーバレエ指導者である〔生年については、1823年説もある。本稿では『オックスフォード バレエダンス事典』の記述に拠った。〕〔『オックスフォード バレエダンス辞典』579-580頁。〕〔薄井、40-43頁。〕〔Mary Ann Lee (American dancer) Britannica Online Encyclopedia 2013年12月21日閲覧。〕。アメリカ合衆国内で名声を得た初めての合衆国出身バレリーナであり、1846年にアメリカ合衆国内で初めて『ジゼル』(アドルフ・アダン作曲)のタイトルロールを踊ったことでも知られる
〔アメリカ人として初めて『ジゼル』のタイトルロールを踊ったのは、オーガスタ・メイウッドである。上演地はリヨンで、1843年のことであった。〕〔〔〔。健康上の理由で若くして現役を退いた後、1860年にフィラデルフィアに舞踊学校を開いた〔。
== 生涯 ==
フィラデルフィアの生まれ〔〔。俳優の家系の出身で、父親は彼女が幼い時に死亡した〔。リーは母親を養うために早くから舞台に立ち、1832年頃に子役として演劇の舞台にデビューした〔〔。生地でポール・アザールという指導者についてバレエを学んだ。アザールはパリ・オペラ座コール・ド・バレエとして舞台に立っていた人物で、彼の夫人もブリュッセルの王立劇場出身の踊り手であった〔。
リーと同じくアザールの指導を受けた踊り手の中に、オーガスタ・メイウッド(1825年 - 1876年11月3日)がいた〔〔『オックスフォード バレエダンス辞典』540頁。〕。メイウッドはニューヨークの生まれで、やはり俳優の家系の出身であった〔〔。リーとメイウッドの2人は、1837年の暮れにフィラデルフィアのチェスナットストリート劇場でフランソワ・オーベールのオペラ・バレエ『カシミールの娘』(''The Maid of Cashmere'')でともにデビューした〔劇場名を「ウォールナッツ劇場」と書いた文献も存在する。〕〔〔。『カシミールの娘』の原題(フランス語)は『神とバヤデール(''Le Dieu et La Bayadere'')』といい、ゲーテバラードを原作にした作品であった〔この作品は、レオン・ミンクス作曲、マリウス・プティパ振付のバレエ『ラ・バヤデール』の原型になった作品といわれる。〕〔〔『オックスフォード バレエダンス辞典』125頁。〕。
『カシミールの娘』の主役、ゾロエは舞踊の技術に優っていたメイウッドが踊り、リーはファティマという脇役を踊った〔。リーもメイウッドもそれぞれに魅力的な踊り手であり、2人が踊りを競う場面では、観客はリー派とメイウッド派に分かれて熱狂し、喝采や花束を贈ったと伝わる〔〔Notable American Women: Mary Ann Lee 2013年12月21日閲覧。〕。2人の人気についての評判はニューヨークにも届いた。1838年、リーとメイウッドはともにニューヨークの劇場主から劇場への出演を要請されたが、このときはメイウッドのみがその誘いに応じた〔。
メイウッドの踊りはニューヨークでも好評を博し、3月にはフィラデルフィアに戻ってきて再びリーと共演した〔。このときの出し物はジャン・シュネゾフェール作曲、フィリッポ・タリオーニ振付のバレエ『ラ・シルフィード』に想を得た『山のシルフ』という作品で、メイウッドが主役のシルフ、リーは脇役の村娘フローラを踊った〔。メイウッドの養父は劇場主でプロデューサーであり、そのためリーよりも厚遇される状態であったので2人の仲は険悪なものになっていった〔。この状態は長く続かなかった。1838年のうちにメイウッドは一家でパリに移住し、2度とアメリカ合衆国で舞台に立つことはなかった〔〔。
リーはフィラデルフィアに残って、『カシミールの娘』や『ラ・シルフィード』などの主役を踊った〔。1839年には、ニューヨークのバワリー劇場でのデビューを果たし、『カシミールの娘』を踊った〔〔。舞台は好評を持って迎えられ、『カチュチャ』(当時の人気バレリーナ、ファニー・エルスラーの代表作として知られる)を踊ったときには、ときの合衆国大統領も鑑賞に訪れたという〔。
リーはニューヨークでジェームズ・シルヴァンに師事した〔〔。シルヴァンはファニー・エルスラーのパートナーを務めたダンサーで、リーに『カチュチャ』を始めとするエルスラーのソロレパートリー(『クラコヴィエンヌ』、『ボレロ』など)を教えた〔〔。ニューヨーク滞在中には、エルスラーと並ぶ人気バレリーナ、マリー・タリオーニの弟ポール夫妻の来演や、エルスラー自身の来演(1840年)などもあり、リーにとってはバレリーナとしての成長に大いに有意義なものとなった〔。
ニューヨークデビューの後は、小さなグループを結成して合衆国内を巡演し、1842年にはボストンで『ラ・シルフィード』(フィリッポ・タリオーニ版)のタイトルロールを自身の演出によって踊った〔〔。アメリカ合衆国内で随一のバレリーナとしての名声を得て、ニューヨークでの公演のほかに故郷のフィラデルフィアの舞台にも出演した〔。当時リーが踊った作品にはジャコモ・マイアベーアのオペラ『悪魔のロベール』(''Robert le diable'')のバレエシーン、オーベールのオペラ『ポルティチの唖娘』などが含まれている〔。
1844年、リーはかねてからの念願だったパリ行きを果たした〔〔。パリではオペラ座バレエ学校へ通うことになり、ジャン・コラーリの指導を受けた〔ジャン・コラーリはリーよりも先にパリへ行ったオーガスタ・メイウッドの指導も手掛けている。〕〔薄井、44-47頁。〕。パリにはわずか10か月ほど滞在しただけで帰国することになったが、舞踊の技術は上達していたし、新たなレパートリーも習得していた〔。
帰国後すぐに、新たなレパートリーの1つ『ゲントの美しい娘』(''La Jolie Fille de Gand''、アドルフ・アダン作曲)を上演した〔。相手役はアメリカ合衆国で最初のダンスール・ノーブルと評価されるジョージ・ワシントン・スミス(1820年 - 1899年)で、リーと同じくアザールのもとでバレエを習い、後にファニー・エルスラーの一座に加入してダンサーとして出演した人物であった〔。1846年の1月1日には、ボストンの劇場で『ジゼル』のタイトルロールを踊った〔〔〔。このときの相手役アルブレヒトは、やはりスミスが踊った〔。同年4月にはニューヨークでも『ジゼル』を上演し、評判は上々でボストンでも再演している〔。
アメリカ合衆国へのバレエ普及に功績を上げたリーは健康を害し、1947年6月に20代前半の若さで引退することになった〔〔。最後の舞台は生地フィラデルフィアで、プログラムには出世作『カシミールの娘』も入っていた〔。リーは1847年11月11日にウィリアム・ヴァン・フックというフィラデルフィアの商人と結婚し、3人の子の母となった〔。引退後もときおり舞台に立ち、1860年には生地に学校を舞踊学校を開いた〔〔。リーは1899年に生地で死去し、ローレル・ヒル墓地に埋葬された〔〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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