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メアリー・サマーヴィル : ミニ英和和英辞書
メアリー・サマーヴィル[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

メアリー・サマーヴィル ( リダイレクト:メアリー・サマヴィル ) : ウィキペディア日本語版
メアリー・サマヴィル[ちょうおん]

メアリー・フェアファックス・サマヴィル(、1780年12月26日1872年11月29日)はスコットランドサイエンスライター博学者である。女性による科学への参加が非常に限られていた時代に活躍した〔O'Connor & Robertson: "in keeping with the ideas of the time, little need was seen to educate girls".〕。名前の日本語表記は「メアリー・サマーヴィル」などとすることもある。数学天文学を学び、カロライン・ハーシェルとともに王立天文学会の初の女性会員にノミネートされた。メアリーは海王星の発見に際して重要な貢献をしている。
イギリスの哲学者経済学者であるジョン・スチュアート・ミル女性参政権を求める議会への大規模な請願を組織した際、ミルはメアリーに最初の請願署名者になってもらえるよう頼んだ。万華鏡の開発者であるサー・デイヴィッド・ブリュースターは1829年、メアリーの死後に「ヨーロッパで最も傑出した女性」であったと称賛を寄せている。
==生涯と教育==
メアリーは海軍中将サー・ウィリアム・ジョージ・フェアファックスの娘で、父ウィリアムは名門フェアファックス一族の出身である。母レディ・マーガレット・チャーターズはスコットランドの複数の名家と親戚関係にあった。メアリーはスコティッシュ・ボーダーズジェドバラにある牧師館で生まれた。この牧師館はおばの家であり、このおばは母マーガレットの姉妹で、『わが生涯の思い出』(''My Own Life and Times'')を著したトマス・サマヴィル博士(1741–1830)の夫人であった〔。メアリーは子ども時代をファイフのバーンティスランドにある家で過ごした〔。海から戻った父ウィリアムは、10歳のメアリーが「野人」のようだと思い、マッセルバラの非常にお金のかかる寄宿学校に1年間行かせることにした〔。メアリーは1年後に戻ってきたが、ようやく読み書きができるかという程度の状態であった。簡単な算術とほんの少々フランス語も学んでいたという。
この後、メアリーは公的教育の外で初歩的な地理学天文学を教わったが、男のきょうだいが受けた教育に比べると限られた内容であったと本人は考えていた。そのため、教育の不足を補おうと、おじであるトマス・サマヴィル博士からラテン語を習った。トマスによると、メアリーは熱心な生徒であった〔。あるとき、兄弟が数学の個人授業を受けているのを小耳に挟み、メアリーは兄弟がわからなかった箇所を答えた。驚いた家庭教師は非公式にメアリーが数学の授業を受け続けることを許可した。エディンバラ社交界の一員としてメアリーは舞踏会やパーティへの参加を楽しんでいたが、本人によると学問のほうが主な関心であったという。
メアリーはエディンバラでアレクサンダー・ネイスミスから美術も習った。メアリーは透視図法を習い、これに感化されてエウクレイデスの『原論』を入手し、独学で学び始めた〔。同時に社交的な催しに出席し、感じが良く礼儀正しいふるまいをするという縁故の多い良家の娘の伝統的な役割を果たし続け、エディンバラの社交家たちの間では「ジェドバラの薔薇」と呼ばれていたという。しかしながらこの頃、妹が10歳で亡くなってしまった後に、勉強のしすぎが娘の死に関係あると信じた両親によってメアリーはさらなる勉強を禁じられてしまった。それでもメアリーが秘密裏に独学で研究を続けるのをとめることはできなかった〔。本人の回想によると、アイザック・ニュートンの『自然哲学の数学的諸原理』などを独習したという〔。1804年にメアリーは遠縁の親類であるロンドンのロシア領事、キャプテン・サミュエル・グレイグと結婚した。サミュエルは海軍大将サミュエル・グレイグの息子である。メアリーとサミュエルの間には2人の子どもが生まれ、息子のヴォロンツォフ・グレイグは法廷弁護士及び科学者となった。夫妻はロンドンに住んだが、メアリーはこの時期、不幸せであった。以前よりは勉強がしやすくなったとはいえ、夫は女性が学問的関心を探求する能力を持っているとはあまり考えておらず、女性が学問をすることに対して偏見を持っていた〔。夫が1807年に亡くなるとメアリーはスコットランドに戻った〔。当時エディンバラ大学の自然哲学教授だったジョン・プレイフェアはメアリーに勉学の継続をすすめ、プレイフェアを通じてメアリーは数学者のウィリアム・ウォレスと文通をはじめた。書簡の中でふたりは雑誌『数学宝庫』(''Mathematical Repository'')にのっている数学の問題について議論した。1811年、メアリーはこのうち1問の答えについて銀メダルを受賞している〔。
夫の遺産のおかげでメアリーは知的関心を探求する自由を得た。1812年にメアリーは別の親戚で、陸軍医療委員会の査察官であるウィリアム・サマヴィル博士(1771–1860)と結婚した。夫ウィリアムはメアリーの物理科学研究を強く後押し、妻の研究に対する熱意と能力をきわめて高く評価していた〔。ウィリアムが王立協会の会員に選ばれたため、ふたりは当時随一の科学サークルに迎え入れられることとなった。
2度目の結婚でメアリーは4人の子どもを生み、同時代の最も傑出した科学者たちの知遇を得た。こうした人々の間でメアリー自身の才能が注目をあびるようになっていった。メアリーは天文学に情熱を傾けていた。メアリーは、天文学は数と量、静止と運動を組み合わせた科学であるという点において、物理科学が最も大規模に結びつきあう例であると信じていた。
メアリーが広く名声を得る前に、ピエール=シモン・ラプラスから、「私のことを理解してくれる女性は3人だけです。サマヴィル夫人、あなたと、カロライン・ハーシェル、それから何も存じ上げていないのですけれどもグレイグ夫人とかいう方です」と言われたことがある。ラプラスは気付いていなかったようだが、もちろんメアリーは最初の「サマヴィル夫人」でありかつ3番目の「グレイグ夫人」両方である。
メアリーは1834年にジュネーヴの物理学・自然史協会の名誉会員に選ばれ、同年に王立アイルランドアカデミーの会員にも選ばれた。1835年に、メアリーとカロライン・ハーシェルは王立天文学会初の女性会員になった。同年からメアリーは政府より300ポンドの年金を受けることになった。1857年にはアメリカ地理統計協会の、1870年にはイタリア地理協会の会員に選ばれている。1869年には王立地理学会パトロンズ・メダル(当時は「ヴィクトリアメダル」とも呼ばれていた)を受賞している。アメリカ哲学協会の会員にもなった。
1838年にメアリーと夫のウィリアムはイタリアに行き、生涯のほとんどをそこで過ごすことになった。1868年、91歳で亡くなる4年前に、メアリーはジョン・スチュアート・ミル女性参政権を求める請願に署名したが、この請願はうまくいかなかった。
メアリーはナポリで1872年11月29日に亡くなり、同地のイングランド人墓地に葬られた〔Giancarlo Alisio, Il Cimitero degli Inglesi, Naples, 1993, ISBN 88-435-4520-5〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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