|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ メタ : [めた] 【名詞・形容詞】meta ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana) ・ ださい : [ださい] 【形容詞】 1. primitive 2. unsophisticated 3. out of fashion
太田 裕美(おおた ひろみ、1955年1月20日 - )は、日本のシンガーソングライター。 本名は福岡 弘美(ふくおか ひろみ、旧姓:太田)。東京都荒川区生まれ、埼玉県春日部市育ち。血液型はA型。夫は音楽プロデューサーの福岡智彦、2男あり。 ==来歴== 東京都荒川区で生まれ、3歳の時、埼玉県春日部市に転居。幼少の頃から音楽が大好きだったという。8歳の夏からピアノを習い始める。初めて作曲したのもこの頃。小学校時代はコーラス部に入っていた。 1967年4月、上野学園中学校音楽指導科声楽科入学。 1969年、中学3年の時に友人の代わりにスクールメイツのオーディションを受け、合格する。受験理由は、大好きなザ・タイガースのジュリー(沢田研二)に会えるかもしれないと思ったため。 これにより渡辺プロの東京音楽学院に入ることとなった。同期生には、伊藤蘭・田中好子(後のキャンディーズ)らがいた。 1972年(高校3年)の11月、NHKのテレビ番組『ステージ101』のレギュラーグループ「ヤング101」のオーディションを受け、「ショパンのワルツ」をひいて合格する。1973年1月から番組終了の1974年3月まで、ヤング101の一員として『ステージ101』に出演。同期メンバーには谷山浩子がいた。ヤング101の途中から、芸名を本名の弘美から「裕美」へと変更した。 1973年12月、NETテレビのオーディション番組『あなたならOK!』に出て優勝。渡辺プロと新人養成契約を結び、西銀座のライブハウス「メイツ」でピアノ弾き語りで歌い始める。 1974年11月1日に「雨だれ/白い季節」でデビュー。キャッチフレーズは「まごころ弾き語り」。デビュー初期はフォーク調で、ピアノ弾き語りの曲が多かった。1975年、日本レコード大賞、日本歌謡大賞等で新人賞を受賞。 1975年12月に3作目のアルバム『心が風邪をひいた日』からシングルカットされた「木綿のハンカチーフ」が大ヒット、翌1976年のオリコンチャート4位を記録(1位は子門真人「およげ!たいやきくん」)。なお、NHK紅白歌合戦には初登場の1976年から1980年まで、5年連続で出場。 1982年に歌手活動を一時休業、8か月間アメリカ合衆国・ニューヨークに単身留学(「八番街西五十一丁目より」で第4回ニッポン放送青春文芸賞優秀賞を受賞)。帰国後には『ニューヨークなんて怖くない』を執筆。また帰国後はディレクターがデビュー時からの白川隆三から、後に夫となる福岡智彦に替わり、テクノポップ調の曲を多くリリースするようになった。このニューウエーブ系路線は、大村雅朗、「4人目のYMO」といわれた松武秀樹、銀色夏生(山元みき子)、BaNaNa、板倉文、ホッピー神山、岡野ハジメ、杉林恭雄などがサポートしていた。 1984年1月20日(29歳の誕生日)、ディレクター兼プロデューサーの福岡智彦との交際を明らかにする。8月28日、婚約発表。 1985年1月26日、福岡智彦と結婚。1980年代後半からは遊佐未森らへの楽曲提供も行うようになった。 1988年1月発表の弦楽四重奏グループ・クロノス・カルテットのアルバム『冬は厳しく~弦楽四重奏曲の諸相II』には、太田の朗読がフィーチャーされている。 1996年4月2日、ライブ活動を再開。1998年、ミニアルバム『魂のピリオド』をリリース。 2005年、かねてから親交のあったミュージシャンAYUOとの連名でアルバム『RED MOON』を制作、ニューヨークのレーベルTZADIKから1月20日、50歳の誕生日にアメリカで発表。 2004年から太田、伊勢正三(元かぐや姫)、大野真澄(元ガロ)の3人でユニット「なごみーず」を組み、『アコースティック・ナイト』コンサートを開催している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「太田裕美」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|