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メデューズ号の筏 : ミニ英和和英辞書
メデューズ号の筏[めでゅーずごうのいかだ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [ごう]
  1. (n,n-suf) (1) number 2. issue 3. (2) sobriquet 4. pen-name 
: [いかだ]
 (n) (uk) raft

メデューズ号の筏 : ウィキペディア日本語版
メデューズ号の筏[めでゅーずごうのいかだ]

メデューズ号の筏』(メデューズごうのいかだ、)は1818年〜1819年、フランスロマン主義派の画家・版画テオドール・ジェリコーによる油彩画で、フランスパリルーブル美術館に所蔵されている。
ジェリコーが27歳の時の作品であり、『メデューズ号の筏』はフランス・ロマン主義の象徴となった。
『メデューズ号の筏』は、大きさ 491 cm × 716 cm 〔Berger, Klaus. "Géricault and His Work". Lawrence: カンザス大学出版部、1955年。78ページ。〕、実物大の絵画で、フランス海軍フリゲート艦メデューズ号が難破した際に起きた事件を表している。
メデューズ号は、1816年7月5日、今日のモーリタニア沖で座礁した。少なくとも147人の人々が、急ごしらえの筏で漂流しなければならなかった。そのほとんどが救出までの13日間で死亡し、生き残った15人も、飢餓脱水食人狂気にさらされることになった。事件は国際的スキャンダルとなり、フランス復古王政の当局指揮下にあったフランス軍指揮官の、無能が遠因になったとされた。
ジェリコーは、依頼を受けてからこの絵を描いたのではない。
最近起きたばかりの有名な悲劇的事件を、意識的に主題に選んだことで、この絵は世間の関心を大いに呼び、ジェリコーの名も世に知られるようになった〔"The Raft of the Medusa "  ルーブル美術館。2008年11月19日。〕。
若い芸術家は事件に惹きつけられ、ジェリコーは事前に様々な事柄を調べてスケッチを繰り返し、いくつも習作を作製してから本作に取り組んだ。
彼は生存者の2名に取材し、筏の精密な縮尺模型を作った。
死体置き場や病院に赴き、死んだ人や死にかけた人の肌の色や質感をじかに観察した。
ジェリコーが予測したように、『メデューズ号の筏』は1819年のサロン・ド・パリで激しい論争の的となり、熱のこもった賞賛と非難とを同時に巻き起こした。
これによりジェリコーは国際的な名声を確立し、今日ではフランス絵画の初期ロマン派画家として広く知られている。
『メデューズ号の筏』は歴史絵画の伝統にしたがってはいるが、主題の選択とその劇的演出において、当時一般的だった新古典主義派の平静と秩序からの脱却を意味している。
ジェリコーの作品は、最初の展示からすぐに広く関心を呼び、その後はロンドンでも公開された。
ジェリコーが32歳で早逝すると、すぐにルーブル美術館に買い取られた。
絵の影響は、ウジェーヌ・ドラクロワジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーギュスターヴ・クールベエドゥアール・マネに見られる。

== 背景 ==

1816年6月、フランスのフリゲート艦メデューズ号は、ロシュフォールを出港、セネガルサンルイに向かった。
メデューズ号は、他の3隻、すなわち供給物資輸送船のロワール号、ブリッグのアルギュス号、コルベットのエコー号による船団の先頭にいた。
ユーグ・デュロワ・ド・ショマレー子爵は20年以上出航から遠ざかっていたにもかかわらず、メデューズ号の艦長に任命されていた〔Zarzeczny, Matthew. "Theodore Géricault’s 'The Raft of the Méduse' Part I". ''Member’s Bulletin of The Napoleonic Society of America''、2001年秋。〕〔Zarzeczny, Matthew. "Theodore Géricault’s 'The Raft of the Méduse' Part II". ''Member’s Bulletin of The Napoleonic Society of America''、2002年春。〕。
メデューズ号の使命は、パリ条約に従い英国からセネガル返還を受けるためである。
乗客には、セネガル知事に任命されたフランス大佐ジュリアン=デジレ・シュマルツとその妻レーヌ・シュマルツもいた。
メデューズ号はよく進み、他の船を追い越した。
しかしそのスピードのため、も針路がずれていた。
メデューズ号は7月2日、西アフリカ海岸の砂洲、今日のモーリタニア付近で座礁した。
衝突の原因は、一般にド・ショマレーの能力不足によるとされる。
彼は能力も経験も不足した外地帰還者で、政治的な昇進の結果として船長の任務に就いていた〔Grigsby, Darcy Grimaldo. ''Extremities: Painting Empire in Post-Revolutionary France''. イェール大学出版部、2002年。174–78ページ。 ISBN 0-300-08887-6〕〔Trapp, Frank Anderson. "Gericault's 'Raft of the Medusa', Lorenz Eitner 著。''The Art Bulletin'', Volume 58 No 1, 1976年3月。134–37ページ。〕〔Eitner, 191–192ページ。〕。
船の離礁に失敗し、7月5日、おびえた乗客や乗組員は護衛艦のボート6艘で、アフリカの海岸に向けての距離を移動しようと試みた。
メデューズ号には160人の乗組員を含め、総勢400人が乗り込んでいたにもかかわらず、ボートには250人しか乗れなかった。
残りの人々、少なくとも146人の男性と女性1人が、満員で一部水中に没している急ごしらえの筏に、折り重なるように乗り込んだ。
乗組員の内17人は、座礁したままのメデューズ号に残る道を選んだ。
船長と乗組員は、ボートに乗り込んで筏を牽引するつもりだった。
しかしわずか数マイル移動しただけで、筏はボートから離れた
〔Borias, 2:19〕。
筏に乗り込んだ人々に残された食料は、乾パン1袋(1日目で食べ尽くした)、水2樽(水中に落ちた)、ワイン数樽のみだった。
批評家のジョナサン・マイルズによれば、筏は「生存者を極限体験へと追い詰める。狂気、乾燥、飢餓。人々は反逆者を虐殺し、死んだ者を食べ、弱者を殺害する」という〔〔Miles,Jonathan. "Death and the masterpiece ". タイムズ、2007年3月24日、2008年11月20日。〕。
13日後の7月17日、筏は偶然アルギュス号に救出された。
フランスは筏の捜索活動を、とりたてて行わなかったのである。
〔Borias, 2:38〕。
このときまで生き残っていたのは、15人の男性だけであった。
他は殺されたり、同僚に海へ放り込まれたり、餓死したり、絶望のあまり海に身を投げたりしたのだった〔その後4〜5人の生存者が、アルゴス号船上で死亡した。〕。
事件は、ナポレオン1815年の失脚以降、ようやく力を取り戻したばかりのフランス復古王政にとって、非常に大きな困惑の種となった〔Brandt, Anthony. 「一掃:ジェリコーは『メデューズ号の筏』を描いた時、主題の恐怖に没頭していた。」''American Scholar''、2007年秋。〕〔他のボートはばらばらになり、ほとんどはセネガルのセント・ルイス島に流れ着いた。幾艘かは上陸し海岸に沿って進んだが、熱と飢餓によっていくつかのグループを失った。42日後に英国に救助された時、メデューズ号に残る選択をした17人の内、まだ生き残っていたのはわずか3人であった。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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