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メヌア(Menua)は、ウラルトゥの王〔『アジア歴史事典』第1巻(平凡社、1984年)の「ウラルトゥ王国」項目(執筆者:杉勇)にはメヌアシュ(Menuaš)と表記されている。〕。在位:紀元前810年頃‐786年頃。ウラルトゥ王国をアッシリア帝国に伍するオリエントの大国に成長させた。 == 来歴 == ウラルトゥ王イシュプイニの次男。既に父の在位中に10年間共同統治者となっていた。宿敵アッシリアとの戦いを控える一方〔戦いが記録に残っていないというのみで、敵対関係は続いていたと思われる。この平和状態は、アッシリア側でシャムシ・アダド5世の未亡人シャンムラマトが摂政を務めていたことも関係すると思われる。〕、メヌアは父の業績を引き継いでマンナエ人に対する遠征を続け、西方では小国に分裂していた後期ヒッタイト諸国を攻め、南方ではウルミア湖畔までを征服し、北方はアラス川に達し、メシュタに宮殿を建設した。これらの事績はタシテペ碑文(トルコ・エラズー県)や、後世にヴァンでアルメニア正教の教会建築に転用された石碑に記されている。 遠征の結果、ウラルトゥ王国の領域はアラス川とユーフラテス河上流域の間に広がった。アッシリアとは対照的に、ウラルトゥは鉄鉱山や良馬に恵まれていたことが、この拡張の背景にあると考えられている。特にユーフラテス河上流域を押さえることで、アッシリアとその鉄や馬の主要供給源であるアナトリア高原との連絡路を絶つことは、対アッシリア戦略の上で重要であった。 こうした征服活動の一方、メヌアは建築王でもあった。メヌアはアララト山の近くに新都市メヌアヒニリを建設したが、首都はトゥシュパ(ヴァン)のままだった。またメヌアは高原地帯での農地を拡大するため用水路やダムといった灌漑施設の建設を盛んに行ったが、そのいくつかはこんにちも使用されている。塩湖であるヴァン湖に面する首都トゥシュパに新鮮な水を供給するため、70kmにおよぶ水道を建設し、ホシャブ川の谷を渡すために高さ15mになる水道橋も建設している。中世アルメニアの歴史家が伝えるバビロニアの女王セミラミスの事績は、このメヌアの事績が元になっているという説もあり、実際にヴァンではウラルトゥが残した水路は「セミラミスの水路」と呼ばれていた。 メヌアの死後は息子のアルギシュティ1世が王位を継ぎ、ウラルトゥ王国の拡大政策を続けることになる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「メヌア」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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