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メノナイト(、メノー派)は、メノ・シモンズの名前に因んで名付けられたキリスト教アナバプテストの教派である。ただし、シモンズがこの集団に与えた影響は比較的小さい。メノナイトはブレザレン、クエーカーと共に歴史的平和教会の一つに数えられ、非暴力、暴力を使わない抵抗と融和および平和主義のために行動している。メノナイトという言葉は教派そのものと、その信徒を指すときの両方に使われる。 2006年時点で、世界には約150万人のメノナイトがいる〔Church census shows 1.5 million members .〕。世界中のメノナイトは、単に質素な生活を送る人々から一般の人とはすぐに違いを識別できるほど時代がかった服装や外観の人々までさまざまな程度で、メノナイトの生活習慣を受け継いでいる。少数の顕著な例外はあるものの、ヨーロッパや北アメリカにおいてメノナイトは圧倒的に田舎に居住し続けている。メノナイトのかなりの数の人々がアフリカに住んでいるが、6大陸の少なくとも51の国で強固な独自共同体を形成し、あるいは他の一般大衆の中に分散した形で、生活している。 メノナイトはキリスト教の教派の中でも災害救助活動で国際的に名声が高く、ボランティア活動に強い宗教的な重要性を置いている。「メノナイト災害時奉仕」は北アメリカに本拠を置き、ハリケーンや洪水などの災害時に即時のまた長期間の奉仕活動を行っている。「メノナイト中央委員会」は世界中の災害救助活動を行うと共に、長期間の国際的開発プログラムにも携わっている。他にも世界中の様々な救援活動や奉仕プログラムがある。 最近の数十年間、メノナイトは積極的に平和と社会的正義の問題に関わっており、「キリスト教ピースメイカー・チーム」や「メノナイト調停サービス」の立ち上げを促進した。 == ラディカル・リフォーメーション == メノナイトの初期の歴史は中央ヨーロッパのドイツ語やオランダ語を話す地域のアナバプテストに始まる。ドイツ語ではトイファー(Täufer)と呼ばれる。現代のメノナイトの先駆者は、宗教改革の一潮流であった。その最もはっきりした違いは幼児洗礼を拒否したことであり、西ヨーロッパで生まれたほとんど全ての幼児がカトリック教会で洗礼を受けていたので、宗教的にも政治的にも重大なことであった。メノナイトの他の重大な神学的見解は、カトリックあるいはマルティン・ルターやフルドリッヒ・ツヴィングリのような他の宗教改革者の見解に対する反論の中から発展してきた。 ツヴィングリの宗教改革の追随者は、生まれてすぐ教会に属することを求めるのは新約聖書の記述に反していると感じた。教会は完全に政府とは切り離されるべき(自由教会の伝統の先駆)であり、イエスを信じ、イエスの教えに従って生きると自ら告白する者のみ教会に加わるべきと考えた。1525年1月21日、小さな集会が開かれ、コンラッド・グレベル、フェリクス・マンズおよびジョージ・ブラウロックが他の12人の仲間と共に、互いに洗礼を授けあった。この集会がアナバプテスト運動の始まりであった。当時の宗教界では多くの急進的な集団が乱立し、階級、国、終末論、性的放縦、断固とした放縦から極端な貞節にまでおよぶ事柄などについて、さまざまな主張を説いた。これらの運動を纏めてラディカル・リフォーメーションと呼ぶことがある。ただし、三位一体を否定するまでに至ったグループは今日のキリスト教から区別される。〔第4講ラディカリズムの離反と教会形成の意識1996・05・27 渡辺信夫〕。 多くの政府や、プロテスタント・カトリック双方の宗教指導者達は、教会員の自覚に基づく教会制度は危険であると考えた。彼らは、アナバプテスト派の一部過激派によるミュンスター反乱の報告に関心をそそられ、軍隊に加わって運動家と戦い、迫害、国外追放、拷問といった手段も用い、時には異端者として処刑した。 各領邦教会の最善の努力にも拘わらず、運動は西ヨーロッパ中、特にライン川地域にゆっくりと拡がった。初期のアナバプテスト指導者の多くが、迫害に遭い殺された。1530年までに運動を起こした指導者の大半がその信条を捨てることを拒んだために殺された。多くの者は、神が如何なる理由でも殺人や力の行使を許すはずがないと信じ、それ故に自衛のために進んで戦おうとはしなかった。これら平和主義に立つ教派はストラスブールのような中立的都市や国に逃げ込んで生き残った。しかし、彼らの安全はしばしば脆いものであり、同盟関係の変化や侵略によって迫害が始まることもあった。バーテンバーガー派のようなアナバプテストの集団は、進んで戦おうとした故に殲滅された。これはアナバプテストの神学の漸進的変化の中で大きな役割を演じた。 アナバプテスト運動の初期に、オランダのカトリック神父メノ・シモンズは、運動のことを聞いて自らのカトリック信仰について再考を始めた。シモンズは聖変化に疑問を持ったが、カトリック教会から去ることを躊躇していた。アナバプテストの一員であったシモンズの弟が仲間といるときに攻撃を受けて防衛を拒んで殺されたことで、シモンズの考えは影響された。1536年、40歳の時に、シモンズはカトリック教会を離れ、その後直ぐにアナバプテスト運動の指導者になった。結果、シモンズは終生お尋ね者となった。シモンズの名前が分散していた非暴力アナバプテストの間に知られるようになり、シモンズはその組織化と団結に貢献した。今日では歴史的平和教会と呼ばれる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「メノナイト」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Mennonite 」があります。 スポンサード リンク
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