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メフメト1世 : ミニ英和和英辞書
メフメト1世[めふめと1せい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [よ, せい]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 

メフメト1世 : ウィキペディア日本語版
メフメト1世[めふめと1せい]

メフメト1世(Mehmed I もしくは Mehmed Çelebi、? - 1421年5月26日)は、オスマン帝国の第5代皇帝スルターン)(在位: 1413年-1421年)。第4代皇帝バヤズィト1世の子。「典雅王(チェレビー)」の別名で知られる〔アクシト『トルコ 2』、62頁〕。分裂した帝国を再統一し、短い治世の中で国家の再建に注力した皇帝として評価されている〔三橋『トルコの歴史』、135頁〕〔マントラン『改訳 トルコ史』、52-53頁〕。
== 生涯 ==

=== アンカラの戦い以前 ===
バヤズィト1世の子として生まれる。
父バヤズィト1世の存命中には、アマスィヤの知事を務めた〔マントラン『改訳 トルコ史』、51頁〕。1402年アンカラの戦いで、父のバヤズィト1世がティムールに敗れて捕虜となる。この時メフメトもバヤズィトに従軍していたが、トルコ人兵たちに助けられて無事に戦場を脱出することができた〔マントラン『改訳 トルコ史』、49頁〕〔クレーファー『オスマン・トルコ 世界帝国建設の野望と秘密』、82頁〕。
アンカラの戦いの後、メフメトは自身の任地であるアマスィアを拠点とした。ティムールの軍はアナトリアに長くは留まらず、エーゲ海沿岸部に到達した後に撤退したが〔、かつてオスマン帝国に併合されたベイリク(君侯国)がティムールによって再興され、アナトリアのオスマン帝国の領土は祖父ムラト1世以前の規模に縮小していた〔。また、メフメトの3人の兄弟が、以下の地に拠ってそれぞれ帝位を主張していた。
* スレイマン:エディルネを本拠にバルカン半島を支配
* イーサー:ブルサ
* ムーサー:キュタヒヤ
足かけ11年にわたる、オスマン帝室の兄弟間で君主の地位を巡る闘争が起きたこの時代は、「空位時代」(もしくは「危機時代」)と呼ばれる〔アクシト『トルコ 2』、61頁〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「メフメト1世」の詳細全文を読む




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