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メホ・コドロ(Mehmed "Meho" Kodro , 1967年1月12日 - )は、ボスニア・ヘルツェゴビナ・モスタル出身のサッカー選手。元ボスニア・ヘルツェゴビナ代表主将。ポジションはフォワード。1990年代に活躍し、ボスニア・ヘルツェゴビナサッカー史上最高のストライカーとしてその名を残す。現在はサッカー指導者。 == キャリア == 地元のクラブであるFKヴェレジュ・モスタルにて1985年にキャリアデビューを果たす。 1991年ユーゴスラビア紛争の影響もあり、リーガエスパニョーラのレアル・ソシエダへ移籍。恵まれた体格を活かしたダイナミックなプレーに繊細なテクニックを兼備し、強烈なシュートと正確なヘディングで移籍1年目から10ゴールを挙げる活躍。1993-1994シーズンには23ゴールを挙げ、この活躍を目にしたビッグクラブからオファーが殺到する。しかし、コドロはラ・レアルとの契約を延長し、残留する。1994-1995シーズンもヴァレリー・カルピンらのアシストからコンスタントに得点を挙げ、イバン・サモラーノに次ぐ、リーグ2位の25ゴールを記録。 4シーズンに渡り2桁ゴールを挙げ、リーガエスパニョーラ屈指のストライカーとなったコドロは、1995-1996シーズン開幕前にヨハン・クライフ率いるFCバルセロナに移籍。新加入のルイス・フィーゴ、ロベルト・プロシネツキ、ゲオルゲ・ポペスクらと共に第2期ドリーム・チームを構成すると期待された。しかし、新加入の選手が多かったバルセロナはシステムが機能せず、コドロ自身も僅か9ゴールと活躍することができなかった。 シーズン終了後、バルセロナはヨハン・クライフからボビー・ロブソンに政権が交代。コドロ自身もバルセロナからCDテネリフェにフアン・アントニオ・ピッツィと入れ替わる形で移籍する。1997-1998シーズンにロイ・マカーイとのコンビで12ゴールを挙げるも、ラ・レアルに在籍していた頃の活躍をすることはできなかった。 その後、1999-2000シーズンにはデポルティーボ・アラベスに移籍し、2001-2002シーズンにイスラエルのマッカビ・テルアビブにて現役を引退した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「メホ・コドロ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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