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メルキー・カブレラ(Melky Cabrera, 1984年8月11日 - )は、ドミニカ共和国・サントドミンゴ出身のプロ野球選手(外野手)。左投両打。MLB・シカゴ・ホワイトソックス所属。 == 経歴 == === ヤンキース時代 === 11月、カブレラが17歳の時、ボストン・レッドソックスがカブレラを視察に訪れる予定であることを知ったヤンキースは、その前日に自らのアカデミーにカブレラを招待。その日行われた試合に出場したカブレラは2打席で左右両打席本塁打を放ち、ヤンキースはそのままカブレラと11月13日に入団契約を結んだ〔Tyler Kepner / The New York Times 「メルキー・カブレラ "第4の外野手" 以上の存在」 『月刊スラッガー』2007年5月号、日本スポーツ企画出版社、2007年、雑誌15509-5、82-85頁。〕。 7月にメジャーデビュー。しかし「まるで地に足が着いていない感じだった」と本人が語るように、マイナーリーグ時代は安定していた守備面でミスを連発し〔澤田敏典 「MLB30チーム最新レポート 全選手個人成績 ニューヨーク・ヤンキース/NYY 2度目のチャンスは逃さなかった」 『月刊スラッガー』2006年8月号、日本スポーツ企画出版社、2006年、雑誌15509-8、73頁。〕、特にレッドソックス戦では捕球ミスによってジョニー・デイモンにランニングホームランを許した。結局この年は6試合出場で打撃面でも打率.211に終わる。 はAAA級コロンバス・クリッパーズで開幕を迎え、31試合で打率.385・OPS.996を記録。5月9日に正右翼手ゲイリー・シェフィールドの穴埋めとしてメジャー再昇格を果たす。5月11日に松井秀喜が左手首を骨折し長期離脱すると、翌12日から松井の代わりに左翼に定着し、バーニー・ウィリアムスと共に故障者続きだったチームの救世主的存在となった。結局、この年は130試合に出場し、打率.280、守備でも12補殺(リーグ2位タイ)と強肩を発揮。6月6日のレッドソックス戦でマニー・ラミレスが放った本塁打性の打球をグラブを伸ばして捕球したプレーは、ファン投票で決定される「2006年のベストプレー」に選ばれている。ジョー・トーリ監督は、これらの活躍を見せたカブレラがヤンキースの地区優勝に不可欠だったという旨のコメントを残している〔。 、ヤンキースの外野手陣には松井の他にボビー・アブレイユやジョニー・デイモンがおり、更に指名打者にもジェイソン・ジアンビを起用予定と、カブレラはポジションを保障されていない状況でシーズンを迎えた〔。しかし、松井が開幕直後に左太股を痛めて故障者リスト入りすると、前年同様、松井に代わって正左翼手として出場。松井復帰後6月頃からは正中堅手のポジションを奪取。シーズン通算で150試合に出場し打率.273・8本塁打・73打点・16補殺(リーグ3位タイ)という成績を挙げている。 は前年のシーズン終了後にトーリが退団し、ジョー・ジラルディが新監督に就任。ジラルディは引き続きカブレラを正中堅手として起用した。しかし8月16日に成績不振によりAAA級スクラントン・ウィルクスバリ・ヤンキースに降格となる。 メルキーという名前が英語のmilk(牛乳)に似ていることから、ヤンキース時代、チーム内では Leche (レチェ:スペイン語で「牛乳」の意)という愛称で呼ばれている。ファン掲示板では「Milkman」と呼ばれ、活躍したときは「Milkman delivers」(配達と打撃のかけことば)と書かれた。また、アメリカ合衆国で展開された広告キャンペーン "Got Milk?" のパロディで "Got Melky?" と書かれたTシャツが販売されている。 1月20日にヤンキースと140万ドルの1年契約に合意。8月3日のシカゴ・ホワイトソックス戦でサイクル安打を記録した。ヤンキースでは14年ぶり15人目となる記録だった。この年は154試合に出場し、打率.274・13本塁打・68打点・10盗塁だった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「メルキー・カブレラ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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