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マラン・メルセンヌ(''Marin Mersenne'', 1588年9月8日 - 1648年9月1日)は、フランスの神学者。数学、物理学に加え哲学、音楽理論の研究もしていた。メーヌ州(現在はサルト県)オアゼ出身。メルセンヌ数(メルセンヌ素数)の名の由来ともなる。また音響学の父とも呼ばれる。ヨーロッパの学者の間の交流の中心となって学問の発展に貢献したことで知られる。 ==生涯== 1588年9月8日に出生し、即日カトリックの洗礼を受けた。幼少より勉学の才を表し、メルセンヌの両親は財政的な困窮にもかかわらず彼に教育を受けさせ、最初にル・マン校で文法を専攻し、16歳の頃、ラ・フレーシュにある王立学院に入った。そこは親の経済状況を問わず才能ある若者を育成るため新設されたイエズス会士の教育機関であった。メルセンヌより8歳年下のデカルトも後に彼らが終生の友情を結ぶことは知らずに2年後輩として入学している。その後パリ大学で神学を学び、1614年から1618年の間はヌヴェールで哲学と神学を教えた。1620年にパリに戻り、以降イタリアやオランダへの旅行以外は、終生パリの僧院に住み続け神学と哲学を教えるかたわら、自身の学問の研究を続けた。しばしばメルセンヌは修道士であると誤解されるが、実際には修道士の教育機関によって教育を受け指導者となっただけであり、イエズス会員になったことはない。 温和で親切な性質で、当代の研究者達の交流のネットワークを積極的につくりあげた。ガリレオの学術研究もサポートし、いくつかの翻訳作業などを行った。メルセンヌが彼らと交わした膨大な往復書簡は、当代の偉人の業績や生活ぶりを知る現在の貴重な研究資料ともなっている。特にデカルトとは親友であり、デカルトがオランダへ移ったさいもメルセンヌだけにその居場所を教え交信を続けた。またデカルトによるとメルセンヌは非常に好奇心が旺盛で、旧約聖書『創世記』28章12節に出てくる「ヤコブの梯子」の長さを計算してみるなど「様々なことを知りたがりすぎる」とこぼさせた。 メルセンヌが自身の公式で257以下の整数で素数として予想した10個の数字は、検証することなしに出されたものであり、結果としては半分の的中率であったが、逆に言えば勘だけで5つの素数を言い当てたことにもなり直感的に物事を捉える能力に秀でていたともとれる。 カトリック教徒であるメルセンヌはルネサンスの自然魔術やヘルメス哲学、カバラを嫌悪し、プロテスタント的思想の薔薇十字団を黒魔術師の団ないし思想的テロリストの陰謀結社とみなしていた。普段は温厚なメルセンヌもペンを持つと人格が変わり厳しくフィチーノやピコやアグリッパを罵倒した。そして、彼の攻撃は、同時代人の薔薇十字運動に加わっていた哲学者、ロバート・フラットにも向けられ泥沼化し、メルセンヌ・フラッド論争に発展する。 メルセンヌは数学だけでなく、宗教や音楽にも神の造りし秩序ある法則性をあてはめて捉え、科学と宗教を統合させようと試みた。1648年、59歳で肺膿瘍によって死亡。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マラン・メルセンヌ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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