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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
メルヴィン「メル」・テイラー(Melvin "Mel" Taylor、1933年9月24日 - 1996年8月11日)は、ザ・ベンチャーズのドラマーである。アメリカ合衆国、ニューヨーク州ブルックリン出身。 ==略歴== キャンド・ヒートのベーシスト、ラリー・テイラーは実弟で、後にベンチャーズのレコーディングにも参加している。 家族や親族に楽器を演奏できる人が多く、子供の頃からジャズやカントリーミュージックなど、恵まれた音楽環境の中育つ。5歳の頃、テネシー州ジョンソンシティの父の生家に移る(後に一家で移住)。そこでのマーチングドラムに参加していた頃、ラジオで聴いていた様々な音楽、そして彼にとっての「ドラムヒーロー」であるジーン・クルーパなどのドラムに心酔して行く。これが彼のドラマーとして、1人の音楽家としてのキャリアに多大な影響を与えることに。 一時海軍航空部隊に入隊し、そこでもマーチングドラムを演奏するが、除隊後はロサンゼルスの製肉店などで働きながらナイトクラブなどでドラムを演奏し、自身の評価を高めていく。そして音楽で身を立てることを決意し、様々なセッションを重ね、エド・サリバン・ショーの出演やノーキー・エドワーズも参加していたバック・オウエンスとのセッション、ハーブ・アルパート&ティファナブラスのシングルで後にベンチャーズもカバーする「悲しき闘牛」のレコーディングに参加するなど、プロドラマーとしてのキャリアを重ねて行く。 1962年、メルは当時ロサンゼルスでも名の知られたクラブ「パロミノ・クラブ」のハウスドラマーとして活動していた。ある夜、偶然ハリウッドでのテレビ収録を終えたノーキー・エドワーズとドン・ウィルソン、ボブ・ボーグルが1杯呑みにやって来た。そこでメルが「1曲演奏してくれないか?」と頼んだところ、当時ホーウィー・ジョンソンが交通事故に遭って脱退していたため(収録はサポートメンバーが参加していた)、演奏出来ないという。そこでメルが名乗りを上げた。セッションはことのほか上手く行き、後にベンチャーズへの参加が舞い込んだ、そしてベンチャーズの栄光のメンバーがここに揃う。 日本にエレキブームをもたらしたベンチャーズであったが、メルの心の中では自身の音楽性を突き詰めてみたい、ベンチャーズでは出来ないことに挑戦してみたいという願いがくすぶっていた。1960年代から何枚かソロ・アルバムをリリースしてはいたが、その気持ちがいよいよ強まり、1973年にいよいよベンチャーズを脱退することになった。そして同時に自らの音楽を極めるために新たパートナーを見つけることにし、ノーキーの復帰によって一時ベンチャーズを離れていたジェリー・マギー、そしてジョン・ダリル、ボブ・スポルディング、ビル・リンカーンらと"メル・テイラー&ザ・ダイナミックス"を結成、R&Bなどベンチャーズにはなかったサウンドを内包したアルバムをリリースし、来日公演も行ったが、思った様な評価を得ることは出来なかった。そして1978年、メルの後任として加入していたジョー・バリルがコカインの不法所持で逮捕、バンドから解雇されたことに伴い、復帰の要請があり、ダイナミックスは自然消滅的に解散、再びザ・ベンチャーズに復帰することになる。 1996年の日本ツアー中、メルは突然体調不良を訴え、名古屋公演が終わった緊急検査で肺癌が発覚、急遽帰国を余儀なくされ、それから僅か10日後に他界。この悲報は日本のファンにすぐ伝わり、没後のコンサート会場ではファンの記帳所や献花台が設けられた。その年の残りのスケジュールは、元ザ・ナックのブルース・ゲイリーが参加した。その年の9月26日、中野サンプラザ追悼公演に特別参加したメルの息子、リオンが後任ドラマーとして参加することが正式発表された。 1962年の加入以来、ザ・ベンチャーズのビートの中核として絶大な人気を誇り、また作曲家、アレンジャーとしても大いに才能を発揮したメル・テイラーに影響を受けた人は数知れず、没後十余年経た今もなお、憧れの存在としてベンチャーズの歴史に名を刻んでいる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「メル・テイラー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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