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メンリッケ : ウィキペディア日本語版
メンリッケ

メンリッケ (スウェーデン語: Mölnlycke) は、スウェーデン西部のヴェストラ・イェータランド県ヘリダ市の中心地。2010年現在の人口は15,608人(スウェーデン統計局調べ)。モルンリケと表記されることもある。
市街地の多くは住宅地で、スウェーデン第二の都市ヨーテボリの中心地から南東におよそ10キロの近郊に位置していることから、ヨーテボリのベッドタウンとなっている。
==歴史==
メンリッケの名前の原型は、1609年には「Molnelyckie(モルネリッキー)」の形で、1675年には「Möllnelycke(メルネリッケ)」、1825年には「Mölnlycka(メンリッカ)」と記録された文書がある。名前の由来は、前半のMöln(メルン)は、メンダールMölndal)と同じく、石臼ミル)を意味する「mölna」(メルナ)から、後半のlycke(リッケ)は、囲まれた土地を意味する「lycka」(リッカ)から来ている。
メンリッケの集落はメンリッケ・ヴェフベリー社(Mölnlycke Väfveri AB)メンリッケ工場(Mölnlycke fabriker)、後のメンリッケ社(Mölnlycke AB)の労働者の居住地として発展してきた。1849年ザクセン出身のグスタフ・フェルディナント・ヘニング(Gustaf Ferdinand Hennig 1786–1853)がメンリッケ工場を設立した。工場はその後、長年にわたりヘニングの娘婿、ブルーノ・ヴェンデル(Bruno Wendel 1824–1893)が経営を担った。ブルーノ・ヴェンデルもまたザクセンで生まれた。工場では1990年代終わりまで、繊維や様々な種類の繊維製品を製造していた。当時の工場の跡地は、現在改築され、数々の企業の建物になっている。また、ヴェンデルが自宅として工場の北側に築いたお城の様な白い木造の屋敷は、1908年以降ヴェンデルスベリ国民高等学校になっている。
メンリッケ工場は事業拡大に伴い、1876年にヒューレベック工場(Hulebäcksfabriken)を建設した〔へリダコミューンホームページ:ヘリダコミューンの歴史 (スウェーデン語)〕。ヒューレベック工場は当初メンリッケ工場が所有、経営していたが、後に別の経営主体に譲渡された。現在工場の跡地とその周辺には、ヘリダ市立ヒューレベック高校(Hulebäcksgymnasiet 1995年創立)をはじめ、繊維工場、家具工場、機械販売店などがある。
1800年代終わりから1900年代にかけては、園芸農業がメンリッケの重要な産業となり、果物野菜などを栽培し、イェーテボリへ出荷していた。栽培農家はメンリッケやその周辺に多く見られ、例えば、ローダセテリー農園(Råda säteri)、ピクスボーヘルゴード庭園(Pixbo herrgård)に加え、メンリッケ中心部付近にもあった。
メンリッケの中心部には当初マッセ沼(Massetjärn)の南側に鉄道駅があったが、1900年代の間、徐々に現在駅があるローダ湖(Rådasjön)とマッセ沼の間に移動した。2000年代には大規模に改築が行われ、鉄道駅は2003年に現在の場所に移動し、バスターミナル「メンリッケ・レースセントルム」(Mölnlycke resecentrum メンリッケ旅客センター)に隣接している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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