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フランソワ=ピエール=ゴンティエ・メーヌ・ド・ビラン(François Pierre Gontier Maine de Biran、1766年11月29日 - 1824年7月20日)は、フランスの哲学者、政治家。一般に「メーヌ・ド・ビラン」として知られる。 メーヌ・ド・ビランの活動期は1789年フランス革命、ナポレオンの登場、失脚、王政復古と完全に重なり、政治家としてそれらの時代を生き抜いた(メーヌ・ド・ビランはナポレオンより3歳年下でナポレオン死後3年後に死去、とナポレオンの同世代人)。生前のビランは著名な政治家としての名が高く、哲学は彼の別の面に過ぎなかった。彼の哲学にはその経歴から期待されるような社会的・政治的な匂いはなく、身体や知覚や感情などに関する内省的な思索で貫かれており、「私たちの生きる通常の世界に降りていく哲学者が必要なのだ」と晩年に記している。〔『哲学の歴史 6』中央公論新社、2007年。項目≪メーヌ・ド・ビラン≫(執筆者:村松正隆).600-601頁。 (以下、『哲学の歴史6』と略す)〕 その哲学に対する姿勢から生まれた思索は後生の哲学者の一部に影響を与え、現代に至るフランス・スピリチュアリスムやフランス反省哲学の源流として高い評価を受けている。〔(1).杉村靖彦『フランス反省哲学における神の問題』哲學研究575号、京都哲學会(2003年)。51頁. (2).関連外部リンク〕 == 生涯== 1766年11月29日、フランソワ=ピエール=ゴンティエ・メーヌ・ド・ビランはフランス南部、ボルドーに近い小都市ベルジュラックで生誕。家庭は祖父も曾祖父も市長を務めたベルジュラックの名家で父親は医師だった。〔:fr:Maine_de_Biran〕 家庭で15才まで教育を受け、その後同じフランス南部のペリグーにあるコレージュで古典を学んだ。〔『哲学の歴史6』602-604頁.〕 1784年(18才)、ルイ16世の近衛兵となり、フランス革命初期の1789年10月にはヴェルサイユ宮殿で国王を護衛し負傷した。近衛兵が解散され、フランス革命後のジャコバン派による恐怖政治が始まると故郷へ戻り、自然科学や哲学の勉強に沈潜した。この時期ビランはヨーロッパ各地を旅行して見聞を広めている〔。 1794年テルミドールのクーデターにより恐怖政治が終わると、地方行政と関わるようになったビランは行政官になり、1797年には五百人会議員に選ばれたが、同年、ナポレオン・ボナパルト配下の擲弾兵団がパリに呼び寄せられ(ナポレオン自身は行かなかった)フリュクティドール18日のクーデターが起きるとビランは王党派として(ビランは一貫して穏健な立憲王政の支持者だった)当選を取り消された。〔 1799年11月ナポレオンによるブリュメールのクーデター、1804年ナポレオンのフランス皇帝戴冠による帝政への移行など激動が続くなか、ビランは地方で議会議員、県議会議員、ベルジュラック群長を務めながら地方行政に力を尽くした(橋・川のインフラ整備、文化財保護、産業・人口調査、初等教育の改善など〔)。 1810年、元老院から立法院議員に指名され、1812年から議員として国政に参加。1813年、前年にロシア遠征で大敗したナポレオンが兵力増強を議会に要請したが、ビランは同僚議員と共に戦争継続を求める皇帝ナポレオンに反対する建白書の印刷を可決させた。〔ナポレオンは激怒したがその威光はもはや薄れており、1814年3月パリが陥落し、翌月ナポレオンはエルバ島へ追放された〔「ナポレオン・ボナパルト#帝国崩壊へ」〕。同年、ルイ18世即位による王政復古後、下院の財務官、騎士(シュバリエ)として貴族となり〔「メーヌ・ド・ビラン」という呼称はこの時から使い始めている。(『哲学の歴史6』.604頁)〕、途中ナポレオンの百日天下(1815年)、極右王党派の急速な勢力拡大による落選(1816年)を除いて、議員の地位を保ち続けた。ナポレオンの死(1821年)から3年後の、1824年7月20日、メーヌ・ド・ビランはパリで死去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「メーヌ・ド・ビラン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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