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モザイク銀座阪急 : ミニ英和和英辞書
モザイク銀座阪急[きゅう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ぎん, しろがね]
 【名詞】 1. (1) silver 2. silver coin 3. silver paint
銀座 : [ぎんざ]
 【名詞】 1. (1) Ginza (shopping district in Tokyo) 2. (2) (Edo period) silver mint 
: [ざ]
  1. (n,n-suf) seat 2. one's place 3. position 
: [きゅう]
  1. (adj-na,n) (1) urgent 2. sudden 3. (2) steep 

モザイク銀座阪急 ( リダイレクト:阪急百貨店#沿革 ) : ウィキペディア日本語版
阪急百貨店[はんきゅうひゃっかてん]


阪急百貨店(はんきゅうひゃっかてん、)は、エイチ・ツー・オー リテイリング株式会社傘下の株式会社阪急阪神百貨店が運営する日本の百貨店
創業者は小林一三で大阪の梅田に本店を置く。本店所在地は大阪府大阪市北区角田町8番1号である。
法人としての株式会社阪急百貨店は、次の2つが存在した。
*初代法人:1947年3月7日 - 2007年9月30日。現在のエイチ・ツー・オー リテイリング株式会社。
*2代目法人:2007年10月1日 - 2008年9月30日。2008年(平成20年)10月1日付で株式会社阪神百貨店と合併し、株式会社阪急阪神百貨店に商号変更。
== 歴史・概要 ==

=== 創業から第2次世界大戦まで ===

1920年(大正9年)11月1日に、5階建ての阪急梅田ビル1階に東京日本橋の老舗呉服店系百貨店・白木屋を招致して白木屋梅田出張店が開店した。55坪の店舗で食料品や日用雑貨の販売を行わせ、同月5日、2階に阪急直営である大衆食堂の阪急食堂を開設したのが始まりである〔。
この白木屋の店舗を売上歩合制の家賃として売上実績のデータを入手し〔「このデータが入手できれば耳々の大体の利益も把握できることになり、梅田におけるターミナルデパートの採算が立つか否かの検討資料が得られることになる」と小林一三が述べたとしている〕、そのデータから梅田駅でのターミナルデパートの可能性を固く信じた小林一三は〔、契約期間が満了を理由に白木屋との契約を解除して1925年(大正14年)6月1日に阪急梅田ビル2・3階に〔自社直営の食料品や生活雑貨中心のスーパーに近い形態〔の阪急マーケット〔、4・5階に直営の阪急食堂を移設して開業し、直営でのターミナルデパートの第一歩を踏み出した〔。
その後、梅田駅ビルを地上8階地下2階に全面改築して大幅に拡張し〔、敷地面積328坪で延べ床面積3,280坪という百貨店に相応しい規模の店舗を作って1929年(昭和4年)4月15日に鉄道会社直営=電鉄系百貨店として阪急百貨店を開業した〔。
この開業を日本初のターミナルデパート(ターミナルデパートは欧米にはない日本独特のもの〔のため同時に世界初となる)とする見方も多いが、現・近鉄大阪上本町駅に設けられた三笠屋百貨店を最初のターミナルデパートとする見方もある〔大阪市史編纂所は「1926年8月31日上本町6丁目に大軌ビル竣工(ビル内に大阪最初の三笠屋百貨店開店) 」としており、三笠屋百貨店を最初のターミナルデパートとしている。 8月のできごと 大阪市史編纂所 大阪市(ウェブサイト )〕〔「大正15年8月に完成した。ビルには本社事務所、直営食堂およびテナントの三笠屋百貨店、ストア、銀行等が入居、9月16日には大阪の東玄関にふさわしい一大ターミナルとしてお目見えした。 」近畿日本鉄道80年の歩み 近畿日本鉄道〕。
開業直前の1929年(昭和4年)4月13日・14日掲載の開店新聞広告に「どこよりもよい品物を、どこよりも安く売りたい」とのコピーを入れた〔ように開業当初は大衆向けの路線を採り、沿線の行楽に向かう人々への弁当販売を手がける等、今日のターミナルデパートの雛形となった存在としても知られる。
経営の中心であった〔7・8階の大食堂は〔、高層階からの眺望や食券方式などの目新しさにより、人気を博した。また、看板メニューとして当時高級品だったライスカレーをコーヒー付き25銭で提供するなど、ランチも名物として話題となった〔。
開業直後に襲った昭和恐慌の時代には、ライスのみを注文してテーブルに備えられていたウスターソースをかけただけで食べるソーライスが流行した際には、他の店舗〔や当店の大食堂の店員が締め出しを図ろうとした〔。しかし、創業者の小林一三は「今は貧しいが、やがて結婚し子供ができる。その時ここでの食事を思い出し、家族で来てくれるだろう」と考えて「ライスだけの客歓迎」と張り紙をさせ〔、福神漬けまで付けて提供する〔など、話題となった。
開業当初は雑貨の品揃えは悪くなかったものの、知識や経験の不足により呉服類が見劣りがして駅の賑やかさ故にやや落ち着かないとされ、売上高も1日平均約2万円だった〔。しかし、1931年(昭和6年)11月に敷地面積628坪で延べ床面積6,191坪として1日平均3.1万円の売上を上げ〔、1932年(昭和7年)12月に延べ床面積12,000坪で1日平均5万円の売上〔へと阪急梅田ビルの増築工事を完成させて増床を行って〔大衆路線が受けたことと合せて売上を順調に伸ばし〔、、1936年(昭和11年)には阪急梅田ビルの第4期増築工事が完成して売り場面積53,435m²にまで拡大した。
1932年(昭和7年)12月の増床時には古美術品売場と茶室福寿荘開設が行われると共に大阪で指折りの古美術店10店を集めて組織した充美会を結成してノウハウの不足を補って美術品の取り扱いの第一歩を踏み出した〔。
1934年(昭和9年)9月には洋家具売場の一角に洋画陳列場を開設して春秋会洋画展を開設して洋画の取り扱いを始めるなど比較的早くから美術品の取り扱いを充実させていった〔。
1937年(昭和12年)発行の機関誌阪急美術1号には、小林一三が「買つて置いて必ず損のないもの」と記述されているように、これら美術品の販売の於いても百貨店全体の大衆路線が展開され、サラリーマンにも購入できる美術品が取り扱われた〔。
1934年(昭和9年)には直営製菓工場とアイスクリーム工場を開設して自社ブランドの菓子類の販売に乗り出す〔など開業が比較的早い時期から食品関連の自社生産を開始するなど食堂から発展した百貨店〔らしい事業展開も行っていった。
一般の小売店による百貨店規制運動に対応して1933年(昭和8年)4月20日に創立総会を開催した。設立の認可申請をした日本百貨店商業組合に当店も設立時から参画していて、同組合は支店や分店の新設を制限する営業統制案を設立総会前日の19日に決定していた。
この日本百貨店組合による営業統制規程第三条を受けて、そごうは阪神元町食堂の営業委託がその規定に抵触するとして断っていた。それにも関わらず、阪神急行電鉄は駅に食堂を付属させることは当然認められるサービスだと主張して神戸・三宮に建設していた駅ビルへの食堂設置〔などを強行し、1936年(昭和11年)4月11日には阪神急行電鉄神戸駅に完成した神戸阪急ビル内に神戸支店を開業して多店化に乗り出した〔。
1937年(昭和12年)5月1日に豊中駅構内東改札口に配給所という小型店を開業した。同所で受けた注文を直ちに梅田の百貨店に連絡して、30分ごとに電車便を使って商品を配送して注文を受けてから1時間後には商品を届ける方式を導入した。これが好評だったため、同年12月4日までに同様の店舗を住吉、芦屋、帝塚山など合計38ヶ所展開して沿線での需要に応えた〔。
1938年(昭和13年)1月1日に施行された百貨店法(第1次)により禁止されるまでは、鉄道利用者の利便性を考慮して夜間営業も行っていたが、同法により午後7時までに営業時間が規制され、夜間営業が廃止された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「阪急百貨店」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Hankyu Department Store 」があります。




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