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モショエショエ2世(Moshoeshoe II、1938年5月2日 - 1996年1月15日)は、レソトの国王(初代、第3代)。モシェシェ2世とも表記される〔外務省: レソト王国 基礎データ 〕。 英国領バストランド首長(第7代)を歴任。 == 概要 == モショエショエはオックスフォード大学に留学後、1960年にコンスタンティン・ベレン・セーイソとして英国保護領バストランドの首長に就任し、1966年にレソトが独立を果たすとそのまま国王へと就任した。 モショエショエの政治力は強くなく、統治中に2度亡命を強いられている。独立当初、レアブア・ジョナサン首相と対立して敗れ、1970年に一時オランダへと亡命している。同年中に首相との和解が成立してモショエショエは帰国し、実権を持たない立憲君主となった。1986年、ジャスティン・レハンヤによるクーデターが成功すると、モショエショエは一時実権を回復するが、レハンヤと対立して、1990年に再びイギリスへと亡命した。レハンヤは国内にいる皇太子をレツィエ3世として即位させ、11月にモショエショエは王位を剥奪された。しかしレツィエとモショエショエの関係は悪くなく、1991年にエリアス・ラマエマによってクーデターが起き、レハンヤが追放されると、レツィエはモショエショエへの王位の返還を表明。これに反対する政府とレツィエは対立を深め、1994年にレツィエはクーデターを起こしてモショエショエへの王位の返還を求めた。このクーデターは他国の介入により解決が図られ、王権が制限される一方で王位の返還は認められ、1995年、モショエショエは再びレソト国王となった。しかし即位1年後の1996年1月15日、交通事故によりモショエショエは死亡し、王位は再びレツィエに戻った〔片山正人「現代アフリカ・クーデター全史」叢文社 2005年 ISBN4-7947-0523-9C3022 p432-434 〕 。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「モショエショエ2世」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Moshoeshoe II of Lesotho 」があります。 スポンサード リンク
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