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モノカシーの戦い : ミニ英和和英辞書
モノカシーの戦い[ものかしーのたたかい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦い : [たたかい]
 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict 

モノカシーの戦い : ウィキペディア日本語版
モノカシーの戦い[ものかしーのたたかい]

モノカシーの戦い(モノカシーのたたかい、英:Battle of Monocacy、またはモノカシー結節点の戦い、英:Battle of Monocacy Junction)は、南北戦争1864年のバレー方面作戦1864年7月9日に、メリーランド州フレデリックで起こった戦闘である。南軍ジュバル・アーリー中将軍がルー・ウォーレス少将が指揮する北軍を破った。この戦闘は、バージニア州ピーターズバーグで包囲されているロバート・E・リー軍から北軍の注意を逸らすためにシェナンドー渓谷とメリーランド州をアーリー軍が襲撃したその一部だった。
== 背景 ==
アーリー軍の襲撃に反応した北軍総司令官ユリシーズ・グラント中将は、1864年7月6日に第6軍団の中から2個旅団約5,000名をジェイムズ・リケッツ准将に付けて派遣した。しかし、この部隊が到着するまでに、アーリー軍と首都ワシントンD.C.の間にいた唯一の北軍はルー・ウォーレスが指揮する大半が徴兵期間100日の寄せ集め兵2,300名に過ぎなかった。『ベン・ハー:キリストの物語』の著者として後に有名になるウォーレスは当時、ボルティモアに本部を置く北軍大西洋岸中部方面軍の指揮官だった。ウォーレス部隊の兵士はほとんど戦闘に参加したことがなかった。
ボルチモア・アンド・オハイオ鉄道の職員が6月29日にアーリー軍侵攻の兆候を報告し、この情報とその後の報告は鉄道会社社長で北軍支持者ジョン・W・ギャレットからウォーレスに渡された。ウォーレスは南軍の目標がボルティモアにあるのかワシントンD.C.にあるのかを決め兼ね、援軍がどちらかの都市に到着できるまで南軍の進行を遅らせる必要があると理解した。
南軍騎兵隊がフレデリックの北軍部隊を追い出したフレデリックの戦いに続いて、アーリーはフレデリック市の破壊を思い留まる代償金として20万ドルを要求し受け取った。フレデリックから3マイル南東にあるフレデリック結節点はモノカシー結節点とも呼ばれ、フレデリックとモノカシー両市を守る重要な地点だった。ワシントンに至るジョージタウン・パイクとボルティモアに至る国道が共にボルチモア・アンド・オハイオ鉄道と同様、そこでモノカシー川を渡っていた。もしウォーレスがその小さな軍隊で2つの道路橋と1つの鉄橋さらに幾つかの浅瀬を守るように6マイル (10 km)に亘って川岸を守れば、アーリー軍の戦力と目標が分かり、できるだけアーリー軍を遅らせることができると考えた。
ウォーレスの見通しは、リケッツ将軍指揮する第6軍団の最初の分遣隊がボルティモアに到着し、軍団は鉄道で急行しておりモノカシーでウォーレス隊に合流すると伝言した時に光明が差した。7月9日土曜日、ウォーレスとリケッツの合流軍約5,800名は川の橋や浅瀬を前に布陣した。川の東岸は高さがあり、兵士達にとって自然の胸壁になっていた。他にも2つの防塞、使える道具で掘った塹壕、あるいはかっては平和な農家の塀や穀物の中に見つけた遮蔽物の中に入った。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「モノカシーの戦い」の詳細全文を読む




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