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モハマッド・アスラム・ワタンジャル(、Mohammad Aslam Watanjar、1946年 - 2000年11月)は、アフガニスタンの政治家、軍人。上級大将。ヌール・ムハンマド・タラキー政権とムハンマド・ナジーブッラー政権で国防相、内務相等の要職を占めた。ワタンジャールとも表記される。 ==経歴== パクティヤー州ズルワト郡チャウニ村出身。パシュトゥーン人、ギルザイ部族。農家の息子。故郷の小学校を卒業し、1965年、カーブル幼年学校、1963年、カーブル士官学校を卒業した。戦車兵。 *1968年 - 第4装甲旅団(連隊?)に勤務、少尉 *1973年 - ムハンマド・ダーウードのクーデターに参加、大尉。同年からアフガニスタン人民民主党、ハルク派 *1975年 - 第4装甲旅団の大隊長、少佐 *1978年4月 - 四月革命に参加。ワタンジャルの戦車は大統領宮殿に最初に突入し、後に記念碑となった(現在、撤去)。 *1978年 - 革命軍事会議議員、中佐 *1978年5月1日 - 副首相兼通信相 *1978年7月8日 - 内務相 *1979年3月19日~4月1日 - 参謀総長 *1979年4月 - 国防相、大佐 *1979年7月29日 - 内務相 *1979年9月14日 - ハフィーズッラー・アミーンとの対立時、タラキーを支持して、罷免された。ソ連特務機関の助けにより、ソ連に出国する。 *1980年1月10日 - 革命軍事会議とその幹部会の議員、アフガニスタン人民民主党中央委員会委員 *1980年1月~1988年 - 通信相 *1980年7月 - 革命軍事会議中央地帯(カーブル、バーミヤーン、パルヴァーン)担当全権代表 *1981年6月 - アフガニスタン人民民主党中央委員会政治局員 *1988年11月15日~1990年3月 - 内務相 *1989年2月20日 - 祖国防衛最高会議議員 *1990年3月6日~1992年4月 - 国防相 1992年4月、ナジーブッラー政権崩壊後、グルブッディーン・ヘクマティヤール側に移ったが、間もなくロシア、後にウクライナに亡命した。オデッサで死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「モハマッド・アスラム・ワタンジャル」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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