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この項ではモリエールの、最初期から最晩年までの作品に見られる医者への批判、風刺を取り扱う。17世紀の医学においては、古代の賢人たちの教えを只管守ろうとする守旧派と、少しずつでも医学を進歩させようとする改革派との熾烈な戦いが行われていた。モリエールが批判したのは、守旧派の面々である〔わが名はモリエール,鈴木康司,P.324,大修館書店〕。 当然、戯曲で医師について扱うには、それなりに豊富な知識が必要である。彼がどのように知識を仕入れていたか確証は何一つないが、彼の交友関係から推察するに、医者で自由思想家であったが情報源ではないかと考えられる。ベルニエは哲学者ピエール・ガッサンディの弟子で、かつてモリエールやシラノ・ド・ベルジュラックと同じ学窓で学んだ旧友であった。ベルニエは守旧的な医師と反りが合わなかったようで、ニコラ・ボアロー=デプレオーにまで情報を流していたようである〔鈴木康 P.325〕。 他にはモリエールの母・マリー・クラッセのいとこに当たる、外科医のピエール・クラッセや、モリエールの主治医であったモーヴィランなども有力である。特にモーヴィランは晩年のモリエールと親しかったようで、ジャン=レオノール・グリマレによって書かれたモリエール最初の伝記にも記述がある〔鈴木康 P.324-5〕。 == 概観 == 16世紀末ごろ、コンメディア・デッラルテがフランスにも流入した。17世紀のフランスではその影響を受けて、博士(哲学者など)や医者がファルスや喜劇においてしばしば嘲笑の対象となっていた。モリエールもこの影響を受けて南フランス巡業時代に、イタリアの影響を受けたファルスの研究に取り組み、俳優・劇作家として勉強に励んだ。1645年に制作されたモリエールの最初の戯曲〔現存しているうちで〕『飛び医者』には、その影響が顕著に発現しているが、これは当時流行していたテーマを扱ったに過ぎず、彼自身の発想による医者諷刺とは言い難い〔鈴木康 P.309〕。 モリエールが医者を積極的に批判・諷刺しだすのは、南フランスの巡業を終え、パリに戻ってからのことである。1665年の『ドン・ジュアン』、『恋は医者』以後も、1666年の『いやいやながら医者にされ』、1669年の『プルソニャック氏』、1673年の『病は気から』において、医者を揶揄、嘲笑しているが、これらの作品が『飛び医者』とはっきりと違うのは、対象を明確にし、一点に絞って攻撃を浴びせかけている点にある。その攻撃対象とは、ヒポクラテスやガレノスなどの古ぼけた知識にしがみついて、その正確性を疑おうともせず、ウィリアム・ハーヴェイの血液循環説などの新発見を絶対に認めようとしなかった、パリ大学医学部などに代表される医学界である〔鈴木康 P.309-10〕。 モリエールの戯曲に見られる医者の描写は、現代の観点からすると信じ難いほど馬鹿げているが、モリエールの創作などではなく、きちんとした裏付けを持つ描写であった。モリエールは当時からすでに「フランス社会の風俗を描いた画家」と称されていたが、その通称に確かに恥じない観察眼を備えていたのである〔鈴木康 P.310〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「モリエールの医者諷刺」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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