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モルデカイ・ブラウン : ミニ英和和英辞書
モルデカイ・ブラウン
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


モルデカイ・ブラウン ( リダイレクト:モーデカイ・ブラウン ) : ウィキペディア日本語版
モーデカイ・ブラウン

モーデカイ・ピーター・センテニアル・ブラウン(Mordecai Peter Centennial Brown, 1876年10月19日 - 1948年2月14日)は、1900~1910年代のアメリカメジャーリーグ野球選手。主なポジションは投手インディアナ州生まれ。右投げ両打ち。ニックネームは"Three Finger"(スリーフィンガー)。手にハンディキャップを負いながら、メジャーリーグで239勝を挙げた。通算防御率は2010年現在メジャー歴代3位である。
== 略歴 ==
ブラウンは7歳の時、叔父の農場にあったトウモロコシ粉砕機に手を挟まれ、人差し指と小指の先を切断する重傷を負い、さらに指の骨折が重なって中指が小指方向に曲がった状態でボールを投げていた〔モーデカイ・ブラウンの右手については、Wikipedia英語版に鮮明な写真が掲載されている。〕。
インディアナで鉱夫をしていたブラウンは、1901年にインディアナ州のマイナーリーグで好成績を残した後、1903年に26歳でセントルイス・カージナルスからメジャーデビューする。ストレートのほかにチェンジアップと、大きく落ちる変化球を投げていたとされ、多くの書物ではその球種を「カーブ」としている。しかしブラウンの手の状態から横に曲がる変化球が投げにくかったことは想像に難くなく、またワールドシリーズで彼と対戦したタイ・カッブは自伝の中で、「ブラウンはフォークを投げていた」と証言している。
シカゴ・カブス移籍後の1904年から安定した投球を続け、この年防御率1.86をマーク。以後1910年までの7年のうち、6シーズンは防御率1点台という活躍をする。この間カブスは1906年から1908年までリーグを3連覇し、1907年と1908年のワールドシリーズタイ・カッブらを要するデトロイト・タイガースを2年連続で破りワールドシリーズ連覇を達成した。同じ殿堂入り投手であるクリスティ・マシューソンとの投げ合いが有名で、投手部門リーグ1位の回数はマシューソンの方が多いが、二人が投げ合う試合においては逆にブラウンの方が戦績がよく、9連勝したこともある。
1911年にはメジャーリーグ史上初の年間2桁セーブ(13)を挙げた。
1914年には、新興のフェデラル・リーグに移り、リーグ消滅後の1916年にカブスに戻り、現役を引退する。ブラウンの最後の登板は1916年9月4日のことで、奇しくも相手のクリスティ・マシューソンもこの試合が現役最後の登板だった。引退後は故郷インディアナに戻って1945年まで給油所を経営していたり、地元マイナーリーグの監督やコーチをしながら、ゲームやエキシビションで10年以上投げ続けていたという。晩年は糖尿病脳卒中を患っていた。
1948年、インディアナ州で死去。翌1949年、ベテランス委員会によりアメリカ野球殿堂入り選手に選出された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Mordecai Brown 」があります。




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