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モンケ
モンケ(Möngke、20px、 1209年1月10日 - 1259年8月11日)は、モンゴル帝国の第4代皇帝(カアン、大ハーン)(在位1251年7月1日 - 1259年8月11日)。漢字表記は蒙哥、蒙哥皇帝で、ペルシア語表記では منگو قاآنmankū qā'ānまたはmūngke qā'ān مونگكه قاآن。元から贈られた廟号は憲宗、諡は桓肅皇帝〔『元史』巻七十四 祭祀志上 序言 によると、クビライの至元元年十月(1264年10月22日 - 11月20日)、大都の太廟に「七室之制」が定められた時、イェスゲイ、ホエルン以降のチンギス・カンをはじめとするモンゴル皇帝、王族、皇后妃に対して尊諡廟號が追贈され、オゴデイにも「憲宗桓肅皇帝」の廟号と諡号で祭祀を受けた。〕。モンケという名は、中世モンゴル語で「永遠」を意味する。カナ表記はメンゲ。チンギス・ハーンの四男トルイとその正妃ソルコクタニ・ベキの長男。子にシリギがいる。 == 生涯 ==
=== 即位以前 === 若い頃から資質に優れ、父のトルイと共に金の名将である完顔陳和尚を三峯山の戦いで破って大勝を収めた。1232年、父の死によりトルイ家の当主となる。 1235年、第2代モンゴル皇帝オゴデイの下で、カラコルムのクリルタイにおいて諸国への遠征計画が発議された。その一つとしてジョチ家の当主バトゥを総司令としてヨーロッパ遠征が決議され、チンギス・カン家の各王家から次期当主クラスの王族達を選抜してこれに従軍させることとなった。モンケもトルイ家当主として異母弟のボチェク(トルイの七男)とともに従軍した。1236年に遠征が開始され、モンケは遠征軍の総司令官となったバトゥに従って、まずヴォルガ・ブルガール地方に侵入して首都を諸将筆頭のスベエデイとともに征服し、ついで翌1237年にはボチェクとともにキプチャク諸部族の首長バチュマンを追い詰めて捕殺する武功をあげた。1238年にはカフカス方面に下ってオゴデイ家の六男とともにアラン人(アス人)たちの諸城の制圧に努め、またルーシ諸国征服においてはキエフ攻略で戦功を挙げた。『元朝秘史』などによると、この遠征中の宴席でオゴデイの長男グユクとチャガタイ家の王子ブリが、総司令であるバトゥと諍い面罵したといい、バトゥからこの報告を受けたオゴデイは激怒してグユクらを厳罰に処すためモンゴル本土へ召還するよう命じたと伝えられる。『集史』によるとブリは遠征軍に留め置かれたようだが、グユクは1239年の秋には軍を離れてモンゴル本土への帰還の途に着いたといい、モンケもこれに随伴したようで、遠征軍はそのまま西進してハンガリー王国、ポーランド王国への遠征を続行し、グユク、モンケ両人は翌年にはモンゴル高原に到着したという。しかし、この時既にオゴデイは死去していた。 もともと、祖父チンギス・ハーンの死後は、末子相続に従ってトルイがモンゴル皇帝(大ハーン)になるはずであったが、トルイが固辞したため、その息子であるモンケを新たな大ハーンとして擁立する約束があった。『集史』などによると、オゴデイは生前、1236年に南宋遠征中陣没した嫡出の三男クチュの遺児シレムンをオゴデイ家の後継者として決めていたという。そのため次期皇帝はこのシレムンかトルイ家の長男であるモンケを望んでいたと伝えられ、ソルコクタニ・ベキやモンケなどトルイ家の側にその旨内々に約束していたという。(ただし、この逸話はトルイ家が権力を掌握した後世の創作である可能性も指摘されている) それらの約束もあり、さらに智勇兼備の名将であったことから、周囲からもオゴデイの後を継ぐ皇帝に望まれた。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「モンケ」の詳細全文を読む
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