|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana) ・ 侵攻 : [しんこう] 1. (n,vs) invasion
モンゴルのルーシ侵攻(モンゴルのルーシしんこう)は、1223年のカルカ河畔の戦いに始まり、1236年のバトゥの西征で本格化する、ルーシ諸国に対するモンゴル帝国の征服戦争である。 1223年のカルカ河畔の戦いでは、スブタイとジェベのモンゴル軍偵察隊にルーシ諸侯やキプチャク(クマン人)連合軍が挑み、ルーシ・キプチャク連合軍が大敗したが、モンゴル軍はルーシの征服は行わず東へ去っていった。その十数年後、バトゥは征西のために大軍を率いてルーシおよびヨーロッパへの大規模侵攻を開始する。これに対し、キエフ大公国の分裂後のルーシを割拠するノヴゴロド公国、ウラジーミル・スーズダリ大公国、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国などが戦ったが、結果はルーシ諸国の大敗に終わり、ルーシの人口に甚大な被害が出た。人口の半分を失う結果になった〔という見方もあれば、犠牲者は50万人ほどという見方もある〔。 また東ヨーロッパの歴史にも大きな影響を与えた。東スラヴ人はモンゴル侵攻後の各地方で異なる道を歩み、ロシア人・ウクライナ人・ベラルーシ人の民族の違いがはっきりとするようになった〔Boris Rybakov, ''Киевская Русь и русские княжества XII-XIII вв.'' (''Kievan Rus' and Russian princedoms in XII-XIII centuries''), Moscow: Nauka, 1993. ISBN 5-02-009795-0.〕。ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の属国と化して「タタールのくびき」に苦しむルーシ諸国の中からはやモスクワ大公国といった新興勢力が現れるようになった。 == 背景 == ルーシを支配していたキエフ大公国は11世紀頃から分裂の兆しが見え始めた。一旦は統一を取り戻したムスチスラフ1世が1132年に没すると、ますます分裂の傾向が鮮明になり、首都キエフも破壊され国土の中心であったドニエプル川流域は荒廃していった。このような時代に、東方から未知の大軍が到来し、きわめて暴力的な侵略を開始したのであった。当時のルーシの年代記作者は、この悲劇を「われわれの罪のせいで」ととらえた。続けてこう書く。「見知らぬ民が現れた。彼らの故郷も、彼らがどこから来たかも、彼らの神は何者なのかも知る者はなかった。神だけが知っていることであり、もしかすると賢者は本を読んで知るかもしれない。」 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「モンゴルのルーシ侵攻」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|