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モンゴルの高麗侵攻(モンゴルのこうらいしんこう)は、朝鮮半島を統治していた高麗王朝に対して、モンゴル帝国が1231年から1273年にわたり繰り返し行った戦争を指す。この間、主要な戦いは6度行われ〔回数の数え方は研究者によって異なり、7度や9度と言われることもある。〕、高麗の国土は荒廃した。戦争の結果、その後約80年間にわたり高麗はモンゴル/元朝の支配下に置かれることとなる。 == 侵攻までの経緯 == 高麗とモンゴルの関係の始まりは1218年である。当時、金朝に属していた契丹族の一部(黒契丹と呼ばれる)が満洲から高麗に乱入し、江東城(カンドンソン)に籠城したが、モンゴルと高麗が共同でこれを滅ぼしている〔杉山1996、107頁。村井1999、100頁。〕。その後の1220年から1223年にかけて高麗王国は連年モンゴルへ朝貢していたが(以降とは異なり奴隷を要求されず)〔『元史高麗伝』(太祖)十四年九月,皇太弟、国王及元帥合臣、副元帥札剌等各以書遣宣差大使慶都忽思等十人趣其入貢,寻以方物進。十五年九月(中略)以皇太弟、国王書趣之,仍進方物。十八年八月,宣差山術䴙等十二人復以皇太弟、国王書趣其貢献。〕、1225年にモンゴル使節が殺害される事件が起きためモンゴルの侵攻を招いた。ただしこの時、モンゴルのチンギス・カンは西夏への遠征中であり、高麗侵攻はチンギスの死後、三男のオゴデイが大カーンに即位した後に行われた。 12世紀後半の1170年には高麗で文臣の支配に対して武臣(軍人)によるクーデターが起きて、以降1270年まで武臣政権と呼ばれる執政体制が敷かれた。1196年に崔忠献(チェ・チュンホン)が政権を握ってからは「崔氏」が権力を握った。モンゴルによる高麗侵攻当時、崔氏2代目の(チェ・ウ)が政権を運営していた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「モンゴルの高麗侵攻」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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