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モンタサンは1960年代後半に中央競馬で走った日本の競走馬。モンタヴァルを父に持つ血統とクラシック三冠での一連の経緯から「不運の名馬」と呼ばれた〔『優駿』1968年11月号掲載「私の競馬ノート (7) ・競馬新聞の文章」(寺山修司著)における『ダービーニュース』からの抜粋 (p.25) 〕。 == 来歴 == 1966年デビュー。6戦目となる朝日盃3歳ステークスにレコードタイムで優勝し、啓衆賞の最良3歳牡馬を受賞。 1967年春、クラシック三冠を前にオープン競走に出走し、京成杯と東京4歳ステークスを連勝してきたホウゲツオーを相手に勝利。しかし長引く馬丁ストライキの最中に体調を崩し〔『優駿』1967年12月号掲載「嵐ヶ丘生まれ―モンタヴアルの血について」(寺山修司著)(pp.22-23)〕、皐月賞と東京優駿ではともに単勝4番人気に推されたが敗退。北海道で馬主の知人から脊椎の治療を受けて復調し〔『優駿』1967年11月号、p.38〕、セントライト記念でニツトエイトを2分の1馬身抑えレコードタイムで優勝。その5日後の10月6日、菊花賞に向けて京都競馬場に移動した〔が、10月11日夜〔『競馬事件簿』(木村光男著、ラジオたんぱ。ISBN 978-4931367388)収録「モンタサン農薬中毒事件」(pp.64-70)〕、飼料に付着していた農薬にあたり激しい下痢と熱発を起こし〔、出走を断念〔。 1968年にオープン競走を3連勝。このうち6月に行われた東京競馬場スタンド新築記念(芝2000メートル)は、特別競走ながら重賞に匹敵する賞金(1着600万円)が設定されていた。1969年2月には不良馬場で行われた京王盃スプリングハンデキャップで優勝。春の天皇賞を目指したが、軽い捻挫のため出走を回避〔『優駿』1969年8月号、p.68〕。 27戦して重賞3勝を含む12勝を挙げ、レコードタイムを複数回記録した一方で、2着が7回あった。八大競走では1968年の有馬記念で4着となった以外はふるわなかった。 1970年の出走を最後に種牡馬となったが、目立った成績を挙げることはできなかった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「モンタサン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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