|
モンティチェロ(英語名:Monticello)はアメリカ合衆国バージニア州シャーロッツビルに位置し、アメリカ独立宣言の起草委員およびアメリカ合衆国第3代大統領を務めた、トーマス・ジェファーソンの邸宅と歴史的なプランテーションがあった場所である。モンティセロ、モンティッチェロとも表記される。邸宅は主にジェファーソン独自のデザインによるものであり、1769年に建設が始まり、その後再設計・増築を経て、1809年に完成した。リヴァナ峡谷(Rivanna Gap)の南、サウスウエスト山脈(Southwest Mountains)の中で高さ850フィート (260 m) の峰の頂上に建てられている。モンティチェロ(Monticello)はイタリア語で「小さな山」を意味する。 1938年から2003年まで発行されたアメリカ合衆国5セント硬貨の裏面にはモンティチェロの西側前景が描かれており(2006年から5セント硬貨の裏面に再びデザインされることとなった)、更に1928年から1966年までに印刷されたアメリカ合衆国2ドル紙幣の裏面にも、このモンティチェロの絵が描かれている。 モンティチェロは1987年、国際連合教育科学文化機関(UNESCO)の世界遺産に登録された。 == 沿革 == モンティチェロの建設が始まったのは1768年のことで、1770年にジェファーソンは離れ家であるサウス・パビリオンへ移住した。建物のデザインの原型は、パラディオ式建築の伝統的様式に基づいたものであった。1784年にジェファーソンがヨーロッパへ長期外交のためモンティチェロを離れた際、柱廊式玄関(ポルティコ)と装飾的なその室内木工技術をのぞき、邸宅の初期のデザインは大部分が完成していた。しかしジェファーソンは帰宅後、モンティチェロをパラディオ式建築と海外で見て自身が敬服した遺跡とが、合体した特徴を持ち合わせた邸宅になるよう想像を膨らませた。そして1796年に新たなデザイン案を基にした更なる工事が開始され、ドーム部の完成と共に1809年、モンティチェロの建設は概ねの竣工へと至った。 1826年7月4日にジェファーソンが逝去した後、遺産となったモンティチェロは、彼の長女であったマーサ・ワシントン・ジェファーソンへと相続された。しかし1831年には財政難から、マーサはモンティチェロを地元の薬剤師であったジェームス・T・バークレーへ売却することとなった。その後バークレーは1834年、全生涯をアメリカ海軍将校として仕えた最初のユダヤ系アメリカ人である、ユライア・P・リーヴィ(Uriah P. Levy)へとモンティチェロを売却した。リーヴィはジェファーソンを非常に尊敬していた人物である。南北戦争中、モンティチェロはアメリカ連合国政府により差し押さえられて売却されたが、戦争後ユライア・リーヴィの遺族がこれを違法として訴訟を起こした。 リーヴィの相続人による訴訟は、ユライア・リーヴィの甥でニューヨーク在住の弁護士、不動産業者、株投資家で議会議員でもあったジェファーソン・モンロー・リーヴィ(Jefferson Monroe Levy)が、他の相続人達の権利を買い上げ財産を管理できるよう定められた1879年に和解した。その後ジェファーソン・リーヴィは叔父のユライア同様、訴訟がニューヨークとバージニアで進行している間にひどく状態の悪化したモンティチェロを、修復・修繕し保護に努めた。 1923年、民営で非営利組織であったトーマス・ジェファーソン財団が、ジェファーソン・リーヴィからモンティチェロを買収した。今日において、モンティチェロは博物館及び教育機関として管理されている。来訪者は地下貯蔵庫の各部屋と1階を見学することが出来るが、2階と3階については一般に公開されていない。 モンティチェロは、世界遺産に選定されたアメリカ合衆国で唯一の私人の住居である。また、1989年から1992年にかけ、アメリカ国立公園局歴史的建造物調査(HABS)の建築家の一団が、モンティチェロを正確に測量した製図の集積を入念に創り上げた。これら製図は現在、アメリカ議会図書館にて保管されている。この世界遺産登録にはモンティチェロと共に、ジェファーソンによるバージニア大学も含まれている。 ジェファーソンが他にデザインしたものには、バージニア州リンチバーグ近郊のポプラ・フォレスト(ポプラの森)と呼ばれる邸宅の他、リッチモンドにあるバージニア州議会議事堂がある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「モンティチェロ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|