|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 侯 : [こう] 1. (n,n-suf) marquis 2. lord 3. daimyo ・ 侯爵 : [こうしゃく] 【名詞】 1. marquis 2. marquess
モンテスパン侯爵ルイ・アンリ・ドゥ・パルダヤン・ドゥ・ゴンドラン(Louis Henri de Pardaillan de Gondrin, marquis de Montespan, 1640年 - 1691年12月1日)は、フランスの貴族、軍人。ルイ14世の公妾だったモンテスパン侯爵夫人フランソワーズ・アテナイスの夫。多くの軍人を輩出したガスコーニュ地方の古い名門貴族の家系に生まれ、彼自身も軍人として各地の戦場で活躍した。 1663年、23歳で侍従長モルトゥマール公爵ガブリエル・ドゥ・ロシュシュアールの令嬢で王妃付き侍女のフランソワーズ・アテナイス・ドゥ・ロシュシュアール・ドゥ・モルトゥマールと結婚した。1663年に長女マリー=クリスティーヌ(12歳で夭折)、1665年に長男ルイ・アントワーヌ(後のダンタン公爵)が生まれた。 1666年に妻がルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールに代わり国王ルイ14世の公妾になったが、戦場にいたモンテスパン侯爵がこの事実を知ったのはこの1年後であった。妻の実家がこの関係を利用して王家から莫大な利益を引き出したのとは対照的に、侯爵は妻をルイ14世に寝取られたことを家門の恥と考えた。そして「妻は死んだ」と宮廷に喪服姿で現れ、ルイ14世に抗議し、不敬罪の廉で投獄された。2週間後に領地に隠棲することを条件に釈放され、葬儀用の馬車でパリ市街を回ってから居城ボヌフォン城に帰り、領地を挙げて妻の葬儀を大々的に行った。 その後、モンテスパン夫人が公妾の地位を失い、宮廷から追放された際には復縁を拒否し、侯爵自身は宮廷に復帰した。侯爵はモンテスパン夫人の生んだルイ14世の7人の庶子たちの形式上の父ということになっており、この奇妙な状況を楽しんでいたという。 1691年に死去。モンテスパン夫人を遺言執行人の1人に指名していた。 == 参考文献 == *安達正勝『フランス反骨変人列伝』集英社、2006年。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ルイ・アンリ・ドゥ・パルダヤン・ドゥ・ゴンドラン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|