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モンテ・アーヴィン(Montford Merrill "Monte" Irvin, 1919年2月25日 - 2016年1月11日〔Monte Irvin dies at 96; Hall of Famer had the chance to break baseball's color barrier Los angels Times January 12, 2016〕〔Baseball has lost a great player and great person in Monte Irvin FOX Sports Jan 13, 2016 at 3:40p ET〕)は、1930 - 1950年代にアメリカ合衆国 ・アラバマ州生まれのニグロリーグ、及びMLBで活躍していたプロ野球選手。ポジションは遊撃手、後に外野手。右投右打。 == 来歴・人物 == === ニグロリーグ時代 === アーヴィンはニュージャージー州の高校で4種目のスポーツをこなし、やり投でニュージャージーの州記録を作ったこともある。高校卒業後ペンシルベニア州のリンカーン大学に通っていたが、同じ年にニグロリーグのニューアーク・イーグルスに遊撃手として入団する。入団当時は『ジミー・ネルソン』という偽名を使ってプレーし、大学にも通い続けていたという。イーグルスでは当時の監督だったウィリー・ウェルズの指導の下で遊撃手としての技術を磨き、1940年と1941年にニグロリーグ東西オールスター戦にも出場するほどに成長する。また攻撃面でも非凡なところを見せており、1940年と1941年のニグロリーグでの打率はそれぞれ.422と.396を記録した。1941年、アーヴィンはイーグルスと月165ドルの契約をしていたが、更に25ドルの昇給を求めたのをオーナーのエファ・マンリーが断ったのをきっかけに、この年のオフにメキシコリーグに参加、68試合で30本塁打、打率.398で打点もあわせてリーグの三冠王となり、最優秀選手として表彰されている。 1943年からは約3年間第二次世界大戦に出兵し陸軍に従軍、復帰後の1945年冬にプエルトリコのウィンターリーグに参加し、同年の最優秀選手となっている。ニグロリーグに復帰した1946年には打率.401で自身二度目の首位打者を獲得、この年のカンザスシティ・モナークスとのニグロ・ワールドシリーズを制覇する原動力となった。ニグロリーグのオールスターゲームには1948年までで計5回(1940年、1941年、1946年 - 1948年)出場している。 前後するが、アーヴィンは1945年に当時ブルックリン・ドジャーズの経営者だったブランチ・リッキーから入団契約の誘いを受けたことがあったが、自分はまだそのレベルにないとしてその誘いを一度断っている。しかし『カラーライン』が破られた1948年のシーズンオフにキューバでのウィンターリーグに参加した後、ニューヨーク・ジャイアンツが5,000ドルの契約金を支払い、アーヴィンはメジャーリーグ入りを果たすことになる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「モンテ・アーヴィン」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Monte Irvin 」があります。 スポンサード リンク
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