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ミシェル・エケム・ド・モンテーニュ(Michel Eyquem de Montaigne , 1533年2月28日 - 1592年9月13日)は、16世紀ルネサンス期のフランスを代表する哲学者。モラリスト、懐疑論者、人文主義者。現実の人間を洞察し人間の生き方を探求して綴り続けた主著『エセー』は、フランスのみならず、各国に影響を与えた。 == 略歴 == ペリゴール地方の、ボルドーに近いモンテーニュ城でユダヤ系フランス人として生まれた。実家は商業を営み富裕であった。父は政治にも熱心でボルドーの市長を務めたことがある。母方はセファルディムユダヤ人の家系であった。ミシェルは6歳になるまで、家庭教師のもと専らラテン語を用いて育てられた。ラテン語は当時の学問に必須の知識であったとはいえ、このような教育法は特異であった。 トゥールーズで法学を学び、フランスの法官になった。1557年、ボルドーの高等法院(パルルマン)に務めていたときに、人文主義者エティエンヌ・ド・ラ・ボエティーと親しくなった。エティエンヌは1563年に死去したため、モンテーニュは深い悲しみに沈んだ。1565年に結婚。6人の娘が生まれたが、そのうち成人したのは1人である。1568年、父の死によりモンテーニュ城を相続した。1570年、37歳で法官を辞任して故郷に戻り、やがて『エセー(随想録)』の執筆を始めた。 法官辞任後、カトリックのシャルル9世、アンリ3世から侍従(非常勤職)に任ぜられる一方、1577年にはプロテスタントのナヴァール公アンリ(アンリ4世)の侍従にも任ぜられた(アンリは即位前の1584年、1587年にモンテーニュの城館を訪れたことがある)。フランス宗教戦争(1562-1598年)の時代にあって、モンテーニュ自身はローマ・カトリックの立場であったが、プロテスタントにも人脈を持ち、穏健派として両派の融和に努めた。 主著『エセー ''Essais''』(随想録)を1580年に刊行した(初版、2巻本)。なおエセーの語源の意味は<試み>である。 1580年から1581年にかけてモンテーニュはフランス、ドイツ、オーストリア、スイスを経てイタリアに旅し、さまざまなエピソードや都市ごとの宗教的な違いを詳細に記した(モンテーニュの死後に原稿が見つかり、1774年に『旅日記''Journal de voyage''』 という題名で出版された)。 1581年、イタリアに滞在中、ボルドーの市長に選出されたことを聞き、帰還して1585年まで(2期)務め、カトリックとプロテスタントの仲介に努めた。任期の終わり頃から、ボルドーではペストが流行し、モンテーニュもペストを避けて他所に逃れた(1586-1587年)。 モンテーニュは、アンリ4世即位後の1590年、顧問になるよう要請されたが、辞退した。1592年に死去するまで『エセー』の加筆と改訂を生涯続けた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ミシェル・ド・モンテーニュ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Michel de Montaigne 」があります。 スポンサード リンク
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