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モンマスの反乱(Monmouth Rebellion)とは、1685年6月21日(イングランドで使用されている旧暦では6月11日)にイングランド・スコットランド・アイルランド王に即位したジェームズ2世に対して、甥で先代国王チャールズ2世の庶子のモンマス公兼バクルー公ジェームズ・スコットが自らの継承権を主張して起こした反乱である。 == 経過 == === 王位継承問題 === チャールズ2世には大勢の庶子がいたが嫡子がいないため、弟のヨーク公ジェームズが後継者となっていたが、ジェームズはカトリック教徒だったためプロテスタント(イングランド国教会)が主流の国民と政治家には不評で、次期国王をプロテスタントにしたい一派はチャールズ2世の庶子であるモンマス公ジェームズ・スコットを推していた。このため、王位継承問題はモンマス賛成派(後のホイッグ党)と反対派(後のトーリー党)に分かれて政争が繰り広げられ、その煽りでカトリック陰謀事件、ライハウス陰謀事件などが引き起こされ、ジェームズの継承権を否定する王位排除法案がホイッグ党から議会へ提出されるまでになった。 チャールズ2世は一貫してジェームズを支持しており、カトリック排除に取り付かれた国民からジェームズを守るためスコットランドへ避難させる一方、ホイッグ党と組んで次の王位を狙うモンマスに対しては官職を取り上げたり国外追放にして処断、議会を解散して王位排除法案の成立を阻止した。また、ホイッグ党の支持基盤である自治都市をトーリー党に変えて、ホイッグ党指導者層をライハウス陰謀事件加担の罪で処刑、1682年にジェームズをイングランドへ帰国させてジェームズが安全に即位出来る状況を整えた。しかし、モンマスはオランダに亡命していたとはいえ健在で、従弟に当たるオランダ総督ウィレム3世(後のウィリアム3世)とメアリー(後のメアリー2世)夫妻に迎えられ復権の機会を伺っていた〔『モールバラ公爵のこと』P45 - P50、『イギリス史』P246 - P250、『イギリス革命史(上)』P230 - P253、P262 - P270。〕。 1685年2月6日にチャールズ2世が亡くなると王位はジェームズに渡り、イングランド・スコットランド・アイルランド王ジェームズ2世として即位した。4月23日に戴冠式も行われ5月19日にトーリー党多数の議会が開催された。一方のモンマスは5月24日にオランダのテセル島から3隻の小型船に300人の兵を乗せて出航、6月11日にイングランド南部のドーセットの港ライム・リージス(ライム・レジス)に上陸してジェームズへの宣戦布告を発し、ジェームズ2世も13日にライム・リージスから首都ロンドンに到着した使者の連絡を受けて鎮圧軍を出動させた。ウィレム3世もジェームズ2世への協力を約束、オランダ軍の一部をイングランドへ送った。 国王軍の主な将軍はジョン・チャーチルとフェヴァシャム伯ルイス・ド・デュラスで、チャーチルはライム・リージスから東のブリッドポートで軍を編成、モンマスを追跡した。一方、司令官に任命されたフェヴァシャムは北東から進軍していった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「モンマスの反乱」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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