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モーガン・ポール・エンスバーグ(Morgan Paul Ensberg , 1975年8月26日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州ハモサビーチ出身の元野球選手。三塁手、右投右打。 == 経歴 == のドラフト61巡目(全体1534位)でシアトル・マリナーズから指名されるが、入団契約を交わさずに南カリフォルニア大学へ進学。のドラフト9巡目(全体272位)でヒューストン・アストロズから指名されプロ入り。ちなみに後にチームメイトになるジェイソン・レインとは、南カリフォルニア大学時代にもチームメイトだった。9月にメジャーデビューを果たす。翌はメジャーでの出場がなかったが、には49試合に出場、には三塁のレギュラーに定着した。 は、前年オフにカルロス・ベルトランやジェフ・ケントがFA移籍し、主砲ジェフ・バグウェルとランス・バークマンが故障で長期欠場を強いられていったため、この年のアストロズはナ・リーグ11位の693得点と得点力不足に泣かされていた。開幕当初の33試合で4本塁打と低調だったものの、5月11日のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦で1試合3本塁打を放ち、そこからコンスタントに打ち続けた。オールスターの時点で24本塁打を放ち、攻守でチームを牽引。9月に右手に死球を受けた影響で、終盤戦は調子が下がったものの、シーズントータルでは自己最多の36本塁打・101打点を記録しシルバースラッガー賞を受賞。その活躍ぶりが評価され、同年のオールスターにも初めて選出され、MVP投票でも4位になった。また、この年の36本塁打&101打点は、球団の三塁手記録となった。ちなみに、この年、1試合(2イニング)だけメジャー昇格後初となる遊撃手としてプレーした。そして、同年オフに1年380万ドルで契約延長。 は、5月終了時点で17本塁打・36打点、40四球を選び、4割近い出塁率をキープする順調な滑り出しを見せた。しかし、6月に三塁守備の際に右肩を負傷してから打撃不振に陥り、7月には状態が悪化したために約3週間ほどDL入りを余儀なくされた。復帰後も復調せず、4本塁打・14打点と低調だったため、戦線離脱中にタンパベイ・デビルレイズからトレードで加入し、三塁手として穴を埋めていたオーブリー・ハフや内野のユーティリティのマイク・ラムと併用されるようになった。結局、2年連続20本塁打以上となる23本塁打を放ち、出塁率.396と高い数字を残したものの、打率は.235と前年から約5分、58打点と前年の約半分も減ってしまった。 も開幕から大不振で、打率自体はそれほど変わらなかったものの、長打が減り、四球も大幅に減ったため、出塁率も大幅に下がった。そのため、アストロズは同年7月28日、同じく不振だったダン・ウィーラーとのトレードで、三塁手のタイ・ウィギントンを獲得。このため、ポジションを追われる形となり、わずか3日後の同年7月31日にサンディエゴ・パドレスへトレード移籍。移籍後、最初のホーム6試合で3本塁打を放ち、復調したかに思われたが、結局、若手のケビン・クーズマノフに追いやられる形となり、シーズン終盤は代打としてプレーした。また、パドレス移籍後、メジャーに昇格して初めて一塁手としてプレーした。 1月31日に、ニューヨーク・ヤンキースとマイナー契約。開幕メジャー入りを果たしたが、打率.235、1本塁打4打点と結果を残せず、6月1日に戦力外となった。 2月9日に、タンパベイ・レイズとマイナー契約を結んだ。しかし、開幕前に解雇され、引退した。 には、古巣アストロズの傘下アドバンスAランカスター・ジェットホークスの育成コーチに就任した。 からは、アストロズの特別補佐コーチに就任した。〔back as Astros fill out Minor League staff 〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「モーガン・エンスバーグ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Morgan Ensberg 」があります。 スポンサード リンク
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