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モーゲンソー・プラン(Morgenthau Plan)は、第二次世界大戦中に立案されたドイツ占領計画のひとつで、二度の世界大戦において同盟国(中央同盟国・枢軸国)の中心的存在であったドイツから、戦争を起こす能力を未来永劫奪うため、過酷な手法を用いる懲罰的な計画であった。 本来の提案では、計画は3つの段階からなっていた。 *ドイツは、2つの国家(北ドイツと南ドイツ)に分割される。 *ドイツの主要な鉱工業地帯であるザールラント、ルール地方、上シレジア(シュレジエン)は国際管理に置かれるか、近隣国家に割譲される。 *ドイツの重工業はすべて解体されるか破壊される。 この計画はアメリカ合衆国財務長官でユダヤ系アメリカ人のヘンリー・モーゲンソーにより立案されたため、モーゲンソー・プランの名で呼ばれることになる。 == 概要 == 1944年9月16日の第2回ケベック会談の席上、アメリカ合衆国のフランクリン・D・ルーズベルト大統領とモーゲンソー財務長官はレンドリース法(武器貸与法)に基づく60億ドルの支援を用いて、この計画に乗り気でなかったイギリスのウィンストン・チャーチル首相を説得した。しかしチャーチルは新しくメモを書き起こしてモーゲンソーの提案を縮小することを選び、この新しいメモで両首脳は合意した。 合意されたメモの要点は次のようであった。「この計画は、ルールとザールから戦争を起こす産業を除去するためのもので、ドイツの性格を農業と田園の国に変えることが期待される。」 この計画の存在は報道陣に漏れた〔The Policy of Hate Time Magazine, Oct. 02, 1944〕が、ルーズベルト大統領は会見で報道された内容を否定した〔The Battle for Peace Terms Time Magazine, Oct. 09, 1944〕。一方、ドイツではヨーゼフ・ゲッベルス大臣率いる国民啓蒙・宣伝省が西部戦線でのドイツ軍民の抵抗を呼びかけるためにこの計画を利用した。 占領下のドイツでは、モーゲンソー・プランはドイツ占領基本指令1067号(JCS1067、後述)および連合国の「産業武装解除」政策の中に生かされており、全面的あるいは部分的な工業の解体と、残った生産力の利用に対し制限を行うことで、ドイツの経済力を弱体化させ戦争を起こす能力を破壊することが意図されていた。1950年までに、「産業の水準化」の事実上の完成により、西ドイツの706箇所の工場から設備が撤去され、鉄鋼生産量は670万トンにまで削減されていた〔Frederick H. Gareau, "Morgenthau's Plan for Industrial Disarmament in Germany" The Western Political Quarterly, Vol. 14, No. 2 (Jun., 1961), pp. 517–534〕。 敗戦直後、ドイツは困窮していたが、占領軍はJCS1067を根拠として対独援助を謝絶した。1946年の年初、ハリー・S・トルーマン大統領は上下両院や国民の圧力に屈し、海外の援助組織が占領下ドイツに入り、食糧状況を調査することを認めた。1946年の半ばには、ドイツ国外の組織が飢えた子供達を援助することが許可された〔Steven Bela Vardy and T. Hunt Tooley, eds. ''Ethnic Cleansing in Twentieth-Century Europe'' ISBN 0-88033-995-0. subsection by Richard Dominic Wiggers, “The United States and the Refusal to Feed German Civilians after World War II ” pg. 282〕。 1946年9月6日、国務長官ジェームズ・F・バーンズは、シュトゥットガルトでの有名な演説『ドイツ政策の見直し』において、欧州の相互理解をよびかけ、ドイツの希望のある未来のために産業政策を見直すことを明言した(一方でこの演説はドイツの共産主義化を防ぐために安定と復興が必要とするもので、ソビエト連邦に対抗するためドイツへの米軍の無期限駐留についても触れた、冷戦のさきがけとなる演説でもあった)〔John Gimbel "''On the Implementation of the Potsdam Agreement: An Essay on U.S. Postwar German Policy"'' Political Science Quarterly, Vol. 87, No. 2. (Jun., 1972), pp. 242-269.〕。ここにモーゲンソー・プラン以来の脱工業化政策が方向転換された。 1947年7月には、悪化する欧州経済を回復させるためのマーシャル・プラン策定に先立ち、ドイツの年間鉄鋼生産量に対する制限は、戦前の25%水準という数値から50%水準にまで緩和された〔Pas de Pagaille! Time Magazine, Jul. 28, 1947.〕。また、JCS1067では、経済面について「ドイツ経済を維持または強化する意図で、ドイツの経済回復へ向けて段階を踏み出す」ことを禁じていたが、この命令は「秩序ある繁栄したヨーロッパは、生産性の高い安定したドイツの経済的寄与を必要とする」と強調するドイツ占領基本指令1779号(JCS1779)に差し替えられた。こうしてモーゲンソー・プランはほぼ葬られた。 1951年、西ドイツは翌年に欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)に加入することを合意した。これはルール国際機関(International Authority for the Ruhr、IAR)が課していた生産施設および生産量に対する制限のいくらかを除去し、ECSCに移管することとなった〔Information bulletin Frankfurt, Germany: Office of the US High Commissioner for Germany Office of Public Affairs, Public Relations Division, APO 757, US Army, January 1952 ''"Plans for terminating international authority for the Ruhr"'' , pp. 61-62 (main URL )〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「モーゲンソー・プラン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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