翻訳と辞書
Words near each other
・ モーゼス・エゼキエル
・ モーゼス・ガン
・ モーゼス・キプシロ
・ モーゼス・キプタヌイ
・ モーゼス・ギル
・ モーゼス・コッツワース
・ モーゼス・サビナ
・ モーゼス・タヌイ
・ モーゼス・ハイム・ルッツァット
・ モーゼス・フィンリー
モーゼス・フリート・ウォーカー
・ モーゼス・ブラ
・ モーゼス・ヘイズン
・ モーゼス・ヘス
・ モーゼス・ヘスと観念弁証法の諸問題
・ モーゼス・マイモニデス
・ モーゼス・マヒダ・スタジアム
・ モーゼス・マローン
・ モーゼス・メンデルスゾーン
・ モーゼス・モソップ


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

モーゼス・フリート・ウォーカー : ミニ英和和英辞書
モーゼス・フリート・ウォーカー[かー]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
カー : [かー]
 【名詞】 1. car 2. (n) car

モーゼス・フリート・ウォーカー : ウィキペディア日本語版
モーゼス・フリート・ウォーカー[かー]

モーゼス・フリート・ウォーカー(Moses Fleetwood "Fleet" Walker, 1857年10月7日 - 1924年5月11日)は、1880年代メジャーリーグベースボール野球選手捕手)。オハイオ州マウントプレザント生まれ。右投右打。
弟のウェルデイ・ウォーカーとともに、現在メジャーリーグで最初にプレイしたアフリカ系アメリカ人とされている。
==来歴・人物==

===球歴===
マウントプレザント初の黒人医師モーゼス・W・ウォーカーと白人の母の息子として生まれる。1878年オーバリン大学に入学し、1881年には学内の野球チームでプレイしていた。1882年ミシガン大学に転学し、そこでも大学の野球チームに在籍していた。
1883年に当時マイナーのノースウェスタン・リーグに参加していたトレド・ブルーストッキングスと契約し、チームの捕手を務めるようになった。同年8月10日、トレドは当時キャップ・アンソンが率いていたシカゴ・ホワイトストッキングス(現カブス)とのエキシビション・ゲームの開催を行おうとしたのだが、その際ウォーカーが出場するトレドとの試合をアンソンが拒否しようとする出来事が起きている。ブルーストッキングスは1884年アメリカン・アソシエーションに加盟、ウォーカーはこの年の5月1日の試合に出場、アフリカ系アメリカ人として初めてメジャーリーグに出場した選手となった。
トレドの主力投手だったトニー・マレーンはウォーカーの能力を高く評価していたものの、「黒人は嫌いだから、彼のサインは見ずに好きな球を投げていた」と語っている。ウォーカーはこの年捕手として41試合に出場〔他に外野手として1試合に出場している。〕するが、シーズン中に鎖骨を折る怪我をしてしまい、それ以降残りの試合に出場できなかった。またこの年リーグ最多となる72の捕逸(パスボール)を記録している。
所属していたブルーストッキングスが破綻した後、ウォーカーは翌1885年以降クリーブランドやウォーターバリーなどのマイナーの球団で野球をしていた。1887年にインターナショナルリーグでジョージ・ストーヴィーと組んだバッテリーは、アメリカのプロ野球史上最初の「アフリカ系アメリカ人同士のバッテリー」としても知られている。ただ当時はメジャーリーグやマイナーリーグで徐々に「カラーライン」が作られ、アフリカ系アメリカ人の参加を制限するマイナーリーグも増えていった。ウォーカーはそれに追われるように1889年までマイナー球団を転々としながら野球選手として活動していた。最後に所属していたシラキュース・スターズ1890年にメジャーリーグに加盟するが、それはウォーカーがチームを離れた後だった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「モーゼス・フリート・ウォーカー」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.