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モーツァルト家の大旅行 : ミニ英和和英辞書
モーツァルト家の大旅行[もーつぁるとかのだいりょこう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [いえ, け]
  1. (suf) house 2. family 
: [たび]
  1. (n,vs) travel 2. trip 3. journey 
旅行 : [りょこう]
  1. (n,vs) travel 2. trip 
: [くだり, ぎょう]
 【名詞】 1. (1) line 2. row 3. (2) verse 

モーツァルト家の大旅行 : ウィキペディア日本語版
モーツァルト家の大旅行[もーつぁるとかのだいりょこう]

この項ではモーツァルト家の大旅行、すなわちレオポルト・モーツァルトとその妻アンナ・マリアが、1763年から1766年にかけて音楽的才能に恵まれた彼らの子どもたちであるマリア・アンナ(愛称ナンネル)とヴォルフガング・アマデウスを率いて行った演奏旅行について詳述する。旅行開始時には2人の子どもはそれぞれ11歳と7歳だった。彼らの並外れた技量は1762年ウィーンを訪問し、ハプスブルク君主国領袖のマリア・テレジアに演奏を披露した際にはすでに明らかであった。ヨーロッパの主要都市や文化の中心を巡る旅が長くなるにつれて社会的、金銭的成功の可能性が強まっていることを察知したレオポルトは、ザルツブルク領主司教のカペルマイスター代理職の長期休暇を願い出た。その後の旅行における子どもたちの早熟な演奏ぶりは聴くものに驚嘆と満足をもたらし、2人の「神童」ぶりは確固たるものとなっていった。
旅行の前半で一家はミュンヘンフランクフルトを経由してブリュッセルに至り、その後パリへ入って5か月間滞在した。次にロンドンへと渡った一家はその地に1年以上留まることになるが、ここでヴォルフガングは当時の一流の音楽家たちと知り合いとなり、多くの音楽に触れるとともに最初の交響曲を作曲する。その後一家はネーデルラントを訪れたが、ここでは子どもたちが2人とも病を患って演奏日程が狂うことになる。しかしながら、ヴォルフガングは旺盛な作曲意欲を見せ続けていた。帰国の途中には再度パリを訪れ、スイスにも足を運んだ一家は1766年11月にザルツブルクへと帰り着いた。
この演奏旅行の成果は相当なものであったと伝えられるが一家の暮らしぶりを変えるには至らず、レオポルトは引き続き領主司教へ仕え続けた。しかしながら、旅行によって子どもたちは国際的な音楽界に触れることができ、これが彼らにとって優れた学びの機会となった。ヴォルフガングの場合には最終的に領主司教から宮廷音楽家としての職を得るまで、続く6年間も演奏旅行を継続することになる。
== 神童 ==

18世紀においては、神童と呼ばれたのはモーツァルト家の子どもたちだけではない。教育作家のゲイリー・スプルース(Gary Spruce)は幾百もの同様のケースがあったと指摘し、ノリッチウィリアム・クロッチ1778年にわずか3歳でオルガンリサイタルを開いたことを例に引いている〔Spruce, p. 71〕。イギリスの学者であるジェーン・オコナー(Jane O'Connor)が説明するところでは、18世紀に神童が持てはやされたのは「なにがしかの並外れたところがある子どもに、潜在的な娯楽性及び金銭的価値があることが認識された」からであった〔O'Connor, pp. 40–41〕。モーツァルトと同時代に幼少期を過ごした人物にはヴォルフガングと同年生まれのヴァイオリニスト作曲家トーマス・リンリーや、オルガンの神童であったジクストゥス・バッハマンらがいる〔Sadie, p. 102〕〔Sadie, pp. 192–93〕。モーツァルトはそうした神童たちの中にあって、早くからの成功と有望さにより将来性が見込まれる基準として認識されていく〔Knittel, p. 124〕。
レオポルトとアンナ・マリアのモーツァルト夫妻は7人の子を授かったが、1751年7月31日生まれで4番目にあたるマリア・アンナ(愛称ナンネル)と1756年1月27日生まれで末っ子のヴォルフガング・アマデウス以外は幼少期に命を落としている。子どもたちはレオポルトの指導の下、自宅で教育を施されて読み書き、算術、絵画に加えて歴史や地理に関して基礎的な知識を身につけた〔。2人の音楽教育に関しては、レオポルトと仲間の音楽家らの日常的な練習や本番に触れることで促進された〔。ナンネルが7歳になるとレオポルトは彼女にハープシコードの演奏を教え、ヴォルフガングはそれを眺めていた。ナンネルはこう述べている。「彼はすぐさま非凡な、天賦の才覚を示しました。彼はしばしばピアノの傍で長い時間を過ごし、見よう見まねで3度の和音を鳴らしては、それが心地よく感じたのか喜びを顕わにしていました。(中略)彼は5歳になる頃にはかわいらしい曲を作曲しては、父がそれらを書きとめられるように演奏して見せたのです〔Sadie, p. 18〕。」一家の友人で詩人のヨハン・アンドレアス・シャハトナー(Johann Andreas Schachtner)が語ったところによると、4歳のヴォルフガングはピアノ協奏曲として成り立つ楽曲を作曲し始めており、また音の高低に対する驚異的な感覚を示すことができたという〔Glover, pp. 16–17〕。

ナンネル自身も弟に劣らず極めて呑み込みが早く、11歳になる頃には高い技術をもって鍵盤楽器を演奏していた〔Blom, p. 8〕。それは1762年のことであったが、この年にはバイエルン選帝侯マクシミリアン3世ヨーゼフの御前で演奏を披露させるべく、レオポルトは子どもたちをミュンヘンへ連れて出かけた〔Sadie, p. 22は、この訪問はナンネルの「記憶違い」だったのではないかと疑問を投げかけている。〕。その後レオポルトは一家全員を連れてウィーンに旅立っており、この旅行は3か月に及んだ〔Sadie, pp. 23–29〕。彼は幾人かの貴族のパトロンからの招待を確約されており、到着して3日のうちに子どもたちはコラルト伯爵(Collalto)の御殿で演奏を披露している。出席者の中にはウィーン財務省の顧問官で後に首相となるがおり、彼は自らの日記にこう記した。「わずか5歳半だと紹介された(実際にはヴォルフガングは7歳近かった)少年がハープシコードを演奏した〔。」帝国副大臣の前で演奏したことがきっかけとなり、一家は王宮に招かれることになった。オーストリア大公マリア・テレジアはヴォルフガングの能力を試すために、楽器に覆いをしたまま演奏するように要求した〔。この宮廷訪問の際にヴォルフガングは2か月年長の皇女マリア・アントニア、後のフランス王妃マリー・アントワネットに出会っている。モーツァルト研究家のは、ヴォルフガングが磨き上げられた床で滑ったところをいかに皇女が助けたかという逸話について詳述している。ヴォルフガング少年は返礼として皇女に求婚したと考えられている〔Blom, p. 14. Gutman, Introduction p. xx, has the same story. See also Evelyne Lever, ''Marie Antoinette'' 〕。
モーツァルト家がウィーンの貴族の間で有名になるに従い、彼らはしばしば日に何度も演奏を求められるようになっていった〔。こうした活動に対する報酬ははずみ、ウィーンで多忙な1週間を過ごすとレオポルトは自身の2年分以上の給料に相当する額を実家に送金できた〔Glover, pp. 18–19〕。ヴォルフガングが猩紅熱にかかったことで演奏予定をこなすことが出来なくなり、彼らの活動量は元には戻らなかった。にもかかわらず、この旅行でレオポルトは将来の社会的、金銭的成功を熱心に追い求めることになるのである〔。ザルツブルクへと戻るや否や、ヴォルフガングは大司教の誕生記念演奏会でハープシコードとヴァイオリンの演奏を披露しており、出席者を驚かせた〔Kenyon, p. 55〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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