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MAUD委員会(モードいいんかい、MAUD Committee)は第二次世界大戦中のイギリスで原子爆弾の可能性を探るために設けられた科学者からなる委員会である。 1941年に委員会はウラン濃縮とそれによるウラン爆弾が技術的に可能だとする報告を提出し、これがアメリカ政府に伝えられて原爆開発計画の直接の開始要因となった。 日本語では MAUD の読みをとってモード委員会とカナ書きされることもある。 この委員会名となっている MAUD は何らかの頭字語ではなく、偽装として選ばれた名称であり、特に意味のないものであった。 ==概要== 1939年、ウランの核分裂による連鎖反応の可能性が明らかになっても、ウランの同位体ウラン235の濃縮が技術的に実現できなければ、原子爆弾は事実上不可能であると考えられていた。 しかしイギリスに亡命していた科学者オットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスが、ウラン235単独での絶大な破壊力をもつ小型の爆弾が可能であり、分離が必要な量はわずかで済むとの見積もりをだしたことで、ウランを用いた原爆の真剣な検討が始まることになった。 イギリスはナチス・ドイツとの激しい戦いが続く中、1940年4月に科学者による MAUD 委員会を組織し、そのウラン原爆の実現可能性を検討させ報告を提出させることとした。 委員会に参加した物理学者ジェームズ・チャドウィックや化学者フランシス・サイモン (Francis Simon) らは、実験によって爆発に必要な臨界質量を正確に見積もるとともに、ウラン濃縮の有効な方法について研究を進めた。 これによって1941年7月に提出された MAUD 委員会の最終報告書は、多額な経費が必要であるもののウラン濃縮は可能であり、数年以内に比較的小型で強力な破壊力をもつウラン爆弾が実現可能であると結論し、アメリカと協力しながら早急にそれを開発すべきであると勧告することとなった。 当時、アメリカは依然戦争に参加しておらず、原爆開発にも慎重な見方が強かったが、この報告が1941年夏以降に伝えられ、また委員会の一員であるマーク・オリファントがアメリカに開発を強く勧めたことが大きなきっかけとなって、その年の末までには本格的に原爆開発へと踏み出すこととなった。 イギリスでもチューブ・アロイズと呼ばれる原爆開発計画が開始されたが、戦況の悪化や資金不足により、やがてこのアメリカのマンハッタン計画へと組み込まれていくことになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「MAUD委員会」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 MAUD Committee 」があります。 スポンサード リンク
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