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モービル湾の海戦(モービルわんのかいせん、英:Battle of Mobile Bay)は、南北戦争中1864年8月5日に行われた海戦である。デヴィッド・ファラガット海軍少将が指揮する北軍艦隊が、陸軍の支援も受けて、フランクリン・ブキャナン提督の指揮する小さな南軍艦隊と、モービル湾入口を守っていた3つの砦を攻撃した。 この戦闘はファラガットの無謀とも言える機雷原を突入するという決断で様相が変わった。その機雷によって鉄装甲のモニター艦が1隻沈没させられたばかりの決断だった。北軍艦隊は機雷原を通過し、海岸にある南軍砦の大砲射程範囲からも逃れた。その後南軍艦隊を装甲艦のCSS''テネシー''1艦まで減らした。しかし''テネシー''は退却せず、北軍艦隊全部を相手に戦った。''テネシー''の装甲は優れたものであり、受けた砲弾によるよりも敵艦に与えた損害の方が多かったが、数の不利までは覆せなかった。 ''テネシー''は最終的に動けない船体となり、北軍艦隊に反撃することもできなくなった。その後艦長が降伏して戦闘は終わった。海軍の支援が無くなった陸上の3つの砦も数日中に降伏した。モービル湾下流部全体の支配権が北軍に移った。 モービルはミシシッピ川より東のメキシコ湾岸で南軍が支配していた最後の重要港であり、それが閉鎖されたことで、北軍による海上封鎖の最終仕上げとなった。 北軍はこの戦いに勝利することで、アメリカ連合国に残された3つの海港(他の2つはジョージア州サバンナとノースカロライナ州ウィルミントン)のうちの1つを封鎖したことに加え、陸上では同時期にアトランタを占領しており、北側の新聞で大々的に扱われ、3か月後に予定されたエイブラハム・リンカーンの再選に大きな弾みが付いた。 == モービル市とモービル湾 == モービル市はモービル湾最奥部近くにあり、モービル川とテンソー川が合流してメキシコ湾に注ぐ、天然の良港だった。湾の長さは約33マイル (53 km)、下流部の最大幅は約23マイル (37 km) である。下流部は浚渫を行わなくても外洋船が通ることのできる水深があったが、ドッグ川河口より上流は浅くなって、喫水の深い船舶はモービル市に近づけなかった。 湾口の東は細長い砂州のモービル・ポイントがあり、ボンセカー湾とメキシコ湾を分け、ボンセカー川が注いでいる。この陸地はモービル湾に入る海峡で終わっており、平和な時代に外的からモービルを守るためにアメリカ合衆国政府が砦を築いていた。 海峡を挟んで西側は、ドーフィン島〔Sometimes spelled Dauphine in contemporary accounts.〕に始まる一連のバリア諸島に続いている。ドーフィン島の北西にリトルドーフィン島があり、一連の小さな島の間にモービル湾に入る2つめの海峡、グラントの海峡がある〔Grant Pass in present-day nomenclature.〕。ドーフィン島の南にも幾つかの小島や浅瀬があり、モービル湾入口より南10マイル (16 km) ほどの主水路となっている〔Wise, ''Lifeline of the Confederacy,'' p. 20. Kinney, ''Battles and leaders,'' v. 4, p. 384, ''map''.〕。 開戦初期にアメリカ連合国政府は海岸全体を守ることはしないことに決めたが、守備を最も重要な港と港湾の幾つかに集中させることにした〔Luraghi, ''History of the Confederate Navy,'' p. 187. ORA I, v. 6, pp. 398, 826, 835.〕。1862年4月にニューオーリンズ港を失った後は、メキシコ湾東部でモービルが唯一の守るべき主要港となった〔The only other remaining port was St. Marks, Florida, which was too small for most steamships, and furthermore lacked rail connections with the interior. See Wise, ''Lifeline of the Confederacy,'' pp. 80–81.〕。 モービル市はその後、メキシコ湾における封鎖破りの中心になった。アメリカ連合国とハバナなどカリブ海の港との貿易の大半はモービルを通じて行われた〔Wise, ''Lifeline of the Confederacy,'' pp, 168–180; appendices 11–14.〕。封鎖を破る試みが数回行われたが、その効果を継続させられるほと大きなものでは無かった〔Scharf, ''History of the Confederate States Navy,'' pp. 537–549.〕。この戦争で北軍海軍を最も当惑させた出来事は、1862年9月4日に襲撃艇CSS''フロリダ''が封鎖を破ってモービル湾に入ったことであり、さらに1863年1月15日には''フロリダ''の湾からの脱出を許していた〔Scharf, ''History of the Confederate States Navy,'' pp. 790–791.〕。 西メキシコ湾封鎖戦隊の戦隊長デヴィッド・ファラガットはその指揮を任された時に、モービル市とニューオーリンズ市を占領する指示を含めた命令を受けていたが、初期はミシシッピ川下流への作戦に忙殺され、モービル市と港は注目されていなかった。それが変わったのは1863年にヴィックスバーグが陥落してからだった。 北軍戦略の遅延に乗じて、南軍は湾入口のモーガン砦とゲインズ砦を強化することで、モービル湾の守りを固めた。さらにより小さなパウエル砦を建設してグラントの海峡の水路を守った〔Friend, ''West wind, flood tide,'' p. 51. Kinney, ''Battles and leaders,'' v. 4, p. 385.〕。グラントの海峡は柱など障害物でも守られ、それが潮流をヘロン海峡に逸らせる効果があった〔ORN I, v. 21, p. 528. The piles also thwarted early CS Navy plans for cooperation between the defenses of Mobile and New Orleans. See Still, ''Iron afloat,'' p. 189.〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「モービル湾の海戦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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