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モーリツ・モシュコフスキ : ミニ英和和英辞書
モーリツ・モシュコフスキ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

モーリツ・モシュコフスキ ( リダイレクト:モーリッツ・モシュコフスキ ) : ウィキペディア日本語版
モーリッツ・モシュコフスキ[ちょうおん]

モーリツ・モシュコフスキMoritz Moszkowski, 1854年8月23日 ヴロツワフ - 1925年3月4日 パリ)はポーランド出身のユダヤ系ピアニスト作曲家指揮者
ポーランド語マウリツィ・モシュコフスキMaurycy Moszkowski)で、モーリツとはそのドイツ語名。ポーランドの血は父方から受け継いでいるだけであった〔Aimeé M. Wood, ''Moritz Moszkowski ,'' Etude Magazine. January, 1910. Accessdate: 11 June 2012〕〔Encyclopædia Britannica は彼を「ドイツ人」として生まれたとしているが、他の文献、例えばルイス・スティーブンス(Lewis Stevens)の「ユダヤ人のクラシック音楽作曲家 ''Composers of classical music of Jewish descent''」などでは彼はユダヤ人とされている。また、彼は自分がポーランド人であると主張したという意見もある。〕。今日ではあまり有名とはいえないが、生前は高い尊敬と人気を集めたピアニストであった。また、ピアノレスナーがショパンエチュードの導入などに習う「15の熟練のための練習曲 ''15 Études de Virtuositié'' 作品72」の作曲者として名を知られている。彼の兄であるはベルリンの著名な作家、風刺家だった。
== 生涯 ==

プロイセン王国のブレスラウ(現ポーランドのヴロツワフ)に生まれる。一家は1852年ザヴィエルチェに程近いピリカ〔訳注:現ポーランド南部、シロンスク県ザヴィエルチェ郡の田園都市。(Pilica)〕 からブレスラウに移り住んだ、裕福なユダヤ系ポーランド人である。当時多くのユダヤ人が出自を明らかにしたがらなかったのに対し、モシュコフスキは熱心なユダヤ教徒であった〔フォービオン・ボウワーズ(Faubion Bowers)がイリーナ・ヴェレッド(Ilana Vered)の「15の熟練のための練習曲 Op.72」の録音のライナーノーツに記している。〕。彼はまだほんの幼い頃から早くも才能を示すようになり、1865年から家庭で音楽教育を受け始めた。その後、一家はドレスデンに移り住み、彼は音楽院に入学してピアノの修行を継続した。1869年にはベルリンへ向かい、まずユリウス・シュテルンシュテルン音楽院エドゥアルト・フランクにピアノを、フリードリヒ・キールに作曲を師事、続いてテオドール・クラクの新音楽アカデミー(''Neue Akademie der Tonkunst'')において、作曲をリヒャルト・ヴュルストに、管弦楽法をハインリヒ・ドルンに師事した。兄弟子にクサヴァーとその兄フィリップのシャルヴェンカ兄弟がおり、二人とは親しい間柄となった。1871年にはクラクの勧めを受け音楽アカデミーの教員となり、ヴァイオリニストとしての成功を目指してその管弦楽団の第1ヴァイオリンで演奏することもあった。
1873年にモシュコフスキは初めてピアニストとして成功を収め、まもなく近隣の都市を巡演して経験を積むと同時に名を揚げていく。2年後には、彼はマチネで自作のピアノ協奏曲の2台のピアノへの編曲版を、フランツ・リストと共にリスト自身によって招待された聴衆を前に演奏している〔Gerard Carter and Martin Adler, ''LISZT PIANO SONATA MONOGRAPHS - Arthur Friedheim’s Recently Discovered Roll Recording ,'' p. 30, epubli (2010), ISBN 3869317957〕〔ここでの作品はピアノ協奏曲ロ短調 Op.3で、この曲は出版されておらずおそらく散逸したものと思われる。ピアノ協奏曲ホ長調 Op.59はヨーゼフ・ホフマンに献呈されており、1899年に出版されている。モシュコフスキの作品が初めて世に出たのはこの頃であり、例えばその中には「スペイン舞曲 ''Spanish Dances'' Op.12」の原曲もある。この曲は元々ピアノ連弾のために作曲され、後にフィリップ・シャルヴェンカとヴァレンティン・フランクによって管弦楽編曲された。フィリップはヴァイオリンパートの編曲を行った。〕
1875年からベルリン音楽院で教員を続けながら〔モシュコフスキは音楽院での教職を25年間続けた。〕、多くの教え子をとった。フランク・ダムロッシュホアキン・ニンアーネスト・シェリングホアキン・トゥリーナカール・ラッチムンド〔訳注:アメリカのピアニスト、指揮者、作曲家。リストの弟子でもあった。(Carl Lachmund)〕、エルンスト・ジョナス(Ernst Jonas)、ヴィルヘルム・ザックス(Wilhelm Sachs)、ヘレネ・フォン・シャック(Helene von Schack)、アルベルト・ウルリッヒ(Albert Ulrich)そしてヨハンナ・ヴェンゼル(Johanna Wenzel)である。そしてモシュコフスキはヨーロッパ中を演奏旅行してまわり、傑出したピアニスト、素晴らしい作曲家として名声を得ると同時に、指揮者としても一目置かれるようになっていった。彼は1884年にピアニストで作曲家のセシル・シャミナードの妹であるアンリエッタ・シャミナード(Henriette -)と結婚し、マルセル(Marcel)という息子とシルヴィア(Sylvia)という娘の二人の子どもをもうけた〔Lazarous C. Triarhou, Moritz Moszkowski ,'' Vol. 67 No. 6 (2012), European Neurology. Accessdate: 10 June 2012〕。1880年代半ばまでにモシュコフスキは腕の神経の異常に苦しむようになり、リサイタルを行うことが次第に難しくなっていった。代わりに彼は作曲、教育、指揮活動に力を入れるようになる〔。1887年にはロンドンに招かれ、そこで彼は自作の管弦楽曲の多くを紹介する機会に恵まれた。彼はロンドンでロイヤル・フィルハーモニック協会の会員に認められる名誉に与っている。3年後、妻が彼の元を離れて詩人のルートヴィヒ・フルダ〔訳注:フランクフルト生まれの劇作家、詩人。プロイセン芸術アカデミー(en)の会員だった。(Ludwig Fulda)〕 に連れ添うようになり、2年後には二人は離婚することとなった〔。
1897年、富と名声を手に入れていたモシュコフスキはパリに移り住み〔S. Pratt, Waldo, The History of Music: A Handbook And Guide for Students ,'' p. 680, Kessinger Publishing (2004), ISBN 1417938714〕、ブランシェ通り(rue Blanche)で二番目の妻と娘の3人で暮らした〔1906年、彼は17歳の娘シルヴィアを亡くした。その時息子はフランス陸軍に従軍していた〕。パリでの彼は教師として引っ張りだこであり、いつでも野心溢れる音楽家たちのために親身に時間を割いた。パリでの彼の教え子にはヴラド・ペルルミュテールワンダ・ランドフスカ1904年アンドレ・メサジェの助言に従い管弦楽法の個人レッスンを受けに来たトーマス・ビーチャム、モシュコフスキをして彼が人から教わるべきことは何もないと言わしめたヨゼフ・ホフマン〔、そして非公式な指導ながらもギャビー・カサドシュがいる。夏には、フランス小説家詩人であったアンリ・ミュルジェールの所有するモンティニー〔訳注:フランス北部に多くある地名であるが、どこであるのかは原文からは定かでない。英文リンクも参照(Montigny)〕 近くの別荘を借りた〔。1899年にはベルリンアカデミーの教職員に選任された。彼は何度もアメリカのピアノ製造会社に招かれてピアノの宣伝を頼まれたが、いくら報酬を積まれても依頼を断り続けた〔 。
1908年、54歳の時、モシュコフスキは健康状態が悪化しはじめたため隠居していた。彼の人気はかげりを見せ、また経歴には暗雲が立ち始めていた。彼は作曲の弟子を取るのを止めてしまった。その理由はこうである。「彼らは頭のおかしい芸術家のように作曲をしたがるんだ。スクリャービンシェーンベルクドビュッシーサティみたいにね・・・〔。」1910年には2番目の妻もまた娘を連れて彼の元を離れ、彼の親友と一緒になってしまう。モシュコフスキはこの私生活の悲劇から、ついに完全に立ち直ることはできなかった〔Lewis, Dave, ''Moritz Moszkowski (1854-1925) ,'' Classical Archives〕。
晩年のモシュコフスキは貧困にあえいだ。全ての著作権を売却したのと、ドイツ、ポーランド、ロシア公債につぎ込んだ財産が第一次世界大戦勃発により失われてしまったからである。彼の教え子である二人、ヨゼフ・ホフマンとベルンハルト・ポラック〔訳注:ドイツの神経解剖学家、眼科学家。フンボルト大学ベルリンで眼科学の教授となった。ピアニストとしてはクライスラーシゲティとの共演歴がある。(Bernhard Pollack)〕 が彼を援助した。仲立ちとなって、モシュコフスキのオペラ「ボアブディル ''Boabdil''〔訳注:ナスル朝最後の君主、ムハンマド12世のスペイン語表記。(ボアブディル)〕」の新たなピアノ編曲版をライプツィヒペータース社に送ることで、ポラックは印税と誤魔化した1万フランと1万マルクの贈与、またホフマンからの寄付1万マルクおよび彼自身が拠出した5千マルクをかき集めることができた〔。1921年12月21日、病と借金苦にあえぐモシュコフスキを見かねて、彼の友人や支援者が彼に代わってカーネギー・ホールで謝恩演奏会を開催した。ステージには15台のグランドピアノが並べられ、それをオシップ・ガブリロヴィッチパーシー・グレインジャーヨゼフ・レヴィーンエリー・ナイヴィルヘルム・バックハウス、ハロルド・バウアー〔訳注:ロンドンでドイツ人の父とイギリス人の母の間に生まれたピアニスト。ドビュッシーの「子供の領分」をパリで初演した。(Harold Bauer)〕 らが弾き、フランク・ダムロッシュが指揮をした。一方、パデレフスキ電報で謝罪の意を伝えた〔モシュコフスキはパデレフスキが初期のピアノ作品を出版するのに際して、非常に便宜を図ってやっていた。〕。コンサートの興行収入は13,275USドルとなり、一部はモシュコフスキを資金難からすぐに救うためにナショナル・シティ・バンク・オブ・ニューヨーク(en)へ移され、またメトロポリタン生命年金に加入することで生涯年間1,250ドルが受け取れるようにした〔〔金額は15,000フランとなり、最初の支給は1925年3月1日であった。〕。しかしながら、モシュコフスキの不調がよくなることはなく、彼は同年3月4日、支給された年金が手元に届く前に胃癌でこの世を去った。得られていた資金は、代わりに彼の葬儀費用に充てられ、また妻と娘に贈られることになった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「モーリッツ・モシュコフスキ」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Moritz Moszkowski 」があります。




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