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ヤクルトアトムズ : ミニ英和和英辞書
ヤクルトアトムズ
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ヤクルトアトムズ ( リダイレクト:東京ヤクルトスワローズ ) : ウィキペディア日本語版
東京ヤクルトスワローズ[とうきょうやくるとすわろーず]

東京ヤクルトスワローズ(とうきょうヤクルトスワローズ、)は、日本プロ野球球団。セントラル・リーグに所属する。
東京都保護地域とし、都内新宿区にある明治神宮野球場専用球場(本拠地)としている。また、二軍イースタン・リーグ所属)の本拠地は埼玉県戸田市にあるヤクルト戸田球場である。
== 球団の歴史 ==

=== 国鉄 - アトムズ時代 ===

シーズンオフでリーグ拡張方針に伴うプロ球団乱立のあおりを受け、各地の国鉄鉄道局(当時)の野球部から選手が引き抜かれる事態が発生した。国鉄は同年の大幅な合理化で労使関係が悪化していることもあり、国鉄職員の団結と意志発揚を目的にプロ球団設立を発案した。当時の国鉄総裁・加賀山之雄が大の野球好きだったことも、参入実現の一要因となった。
しかし、日本国有鉄道法に抵触するため国鉄が直接親会社になることはできず、国鉄の外郭団体である財団法人交通協力会(現:公益財団法人交通協力会・株式会社交通新聞社)が主体となり、1月12日に財団法人鉄道弘済会日本通運、日本交通公社(現:公益財団法人日本交通公社・株式会社ジェイティービー)などの企業により株式会社国鉄球団(資料によっては国鉄野球株式会社となっている物もあり)を設立。球団名を国鉄スワローズ(こくてつスワローズ ''Kokutetsu Swallows'' )とし、(#球団名も参照のこと)セントラル・リーグに加盟。初代監督には西垣徳雄が就任。
国鉄参入直前のセ・パはともに7球団であり、切りの良い8球団にしたいという思い、それも大企業である国鉄のプロ参入にセ・リーグ関係者は色めき立っていたが、パ・リーグとの勧誘合戦により参入が立ち消えになってしまうことを恐れ、セ・国鉄内部ともに極秘扱いで計画は進められた。参入の下準備も佳境に差し掛かる頃には巷間でも国鉄参入の噂が立っていたが、国鉄がプロ球団など作るはずがないとパ・リーグは高を括っており、参入は至って順調に成功した。本拠地は元逓信省総裁松前重義の尽力で、武蔵境の旧中島飛行機工場跡地に新しい野球場「武蔵野グリーンパーク野球場」が建設された(諸事情により1956年閉鎖。7試合しか行われなかった)。
しかし、参入が他新球団より遅れていたため選手確保がままならず、自前の鉄道局野球部を中心に他の社会人や大学などのアマチュア野球に残っている人材をかき集めたが、プロ経験者は戦前の一時期阪急に在籍した中村栄ただ1人という状態だった。アマチュア野球では強豪の鉄道局野球部もプロでは全く通用しなかったため、松竹ロビンスの二軍監督・森谷良平と、かつて奉天満鉄倶楽部に在籍していた宇佐美一夫を追加補強してクリーンアップに据えたものの、その後も貧打に悩まされた。
〔この年の記述の出典は特記ない場合、ヤクルト球団公式サイトの球団のあゆみ 1950年代 とする〕、3月10日の球団初公式戦の対大洋ホエールズ戦(下関)に2対1で敗れ、続く11日の対広島カープに3対2で球団初勝利を挙げる。しかし序盤の3月21日から14連敗、4月26日から10連敗で最下位で、8月に享栄商金田正一が高校を中退して入団し、10月1日にプロ初勝利を挙げるとこの年8勝を挙げ、チームは終盤13連敗の広島に代わって7位となった。この年チームは42勝94敗2分で首位松竹ロビンスから57.5ゲーム、最下位広島と1.5ゲーム差の8球団中7位に終わる。シーズン終了後、西日本パイレーツがセ・リーグを脱退したため、セ・リーグは7球団となる。
〔、開幕から4月にかけて12勝4敗で首位に立つが、5月に入り6連敗で2位に落ちると、6月には3勝10敗として、前半戦終了時には6位となっていた。8月に入り、金田正一がこの月6勝を挙げ、チームは11勝10敗で勝ち越し5位に浮上し、そのままシーズンを終える。金田は、22勝を挙げ、最多奪三振を獲得〔セ・リーグで最多奪三振がタイトル制定となったのは1991年。球団公式サイトの球団のあゆみではセ・リーグ表彰で記載。〕するとともに、9月5日に球団初となるノーヒットノーランを達成〔18歳35日での達成は日本プロ野球史上最年少記録。〕。土屋五郎が、球団初のタイトルとなる最多盗塁を獲得〔。
〔、この年よりフランチャイズ制が導入され、国鉄は読売ジャイアンツ毎日オリオンズ大映スターズ東急フライヤーズと共に後楽園球場を本拠地とした。開幕から2勝2敗とした後は4連敗、4月に入り4連敗と6連敗、5月に10連敗と連敗を重ねたが、松竹と広島が低迷したことで5位でシーズンを終了。この年120試合制となり初の50勝到達となったが、このうち半分ちかくの24勝は金田正一で二年連続奪三振王となった。佐藤孝夫が球団初の新人王を獲得。
、松竹と大洋が合併したことで、この年からセ・リーグは現在の6球団制に移行。45勝79敗1分に終わり、首位巨人から42ゲーム差、5位大洋松竹と4.5ゲーム差で球団初の最下位となる。西垣徳雄が監督を退任、後任は藤田宗一
、読売ジャイアンツから移籍した宇野光雄の活躍で同年の対巨人戦8連勝。宇野と箱田弘志が球団初のベストナインを獲得する。首位中日から32ゲーム差、55勝73敗2分の5位に終わる。
10月19日、金田正一がシーズン350奪三振を記録、NPB新記録〔現在の記録は1968年に江夏豊が記録した401。〕となると共に大リーグボブ・フェラー348を抜く世界新記録〔。町田行彦本塁打王を獲得。57勝71敗2分で、首位巨人と34.5ゲーム、4位広島と1ゲーム差の5位に終わり、藤田が監督退任、後任は宇野光雄。
、対巨人戦で11勝(13敗)と互角の試合を見せる。大脇照夫が5月3日の対中日戦(中日)でノーヒットノーラン、宮地惟友が対広島(金沢兼六)で球団初、日本プロ野球3人目となる完全試合を達成している〔。チームは首位巨人と21ゲーム差、61勝65敗で4位に終わる。オフ、南海ホークスから飯田徳治を金銭トレードで獲得。
、金田正一は7月15日の対中日戦(中日)で2000奪三振を記録。8月21日の対中日戦(中日)でプロ野球4人目の完全試合を達成し、この年は最多勝利最優秀防御率を獲得、沢村賞と自身初のベストナインに選ばれている。佐藤孝夫が22本塁打で本塁打王となる。チームは58勝68敗4分、首位巨人から15.5ゲーム差の4位に終わる。
、開幕戦の対巨人戦(後楽園)、金田正一が巨人のルーキー長嶋茂雄を4打席連続三振に抑えるなど、4対2で勝利する。5月24日の対阪神戦(甲子園)で飯田徳治がアキレス腱切断、日本プロ野球記録の連続試合出場記録が1246で止まる〔。6月6日、金田が球団初の通算200勝を達成〔かつ、球団史上唯一。〕。チームは2年連続の58勝68敗4分、首位巨人から17.5ゲーム差の4位に終わる。金田正一が投手部門三冠王(最多勝、防御率、三冠王)と沢村賞を獲得。
、この年も開幕戦の対巨人戦(後楽園)で金田正一が巨人のルーキー王貞治を2三振に抑えている。チームは63勝65敗2分、首位巨人から15.5ゲーム差の4位に終わる。
、9月30日に金田正一が対中日戦(後楽園)で勝利して、10年連続20勝を達成するが、チームは54勝72敗4分、首位巨人から17.5ゲーム差、6年ぶりの最下位となる。宇野は監督を辞任、後任は砂押邦信
6月6日、森滝義己がプロ野球史上5人目となる完全試合を達成。67勝60敗3分で3位とし、球団初のAクラス、勝率5割を記録する。
9月5日、金田正一がメジャーリーグウォルター・ジョンソンの記録を抜く通算3509奪三振を達成。51勝79敗4分、首位阪神から24ゲーム差の最下位となる。セ・リーグは3割打者が1人という投高打低のシーズンだったが、その中でも国鉄のチーム打率は.201(313得点)だった。これは2リーグ制以降の最低の記録である。11月、東映と共に韓国に遠征し、親善試合を行う〔。砂押は監督を退任、後任は浜崎真二。オフ、西鉄から豊田泰光を獲得。
、5月8日の対大洋戦(後楽園)で金田正一が通算300勝を達成。チームは65勝73敗2分、首位巨人から18ゲーム差の4位。浜崎は監督を退任、後任は林義一
年々増大する経営費のために経営主体は交通協力会から鉄道弘済会へと変わっていたが、公共企業・国鉄の球団であるという体面もあり相当の緊縮財政だった。新人選手の契約金は高騰する一方で満足な補強もできず(当てになる戦力は金田だけだった)、同年に起こった三河島事故による批判は球団にも飛び火していた。この年の8月、球団譲渡を前提とした業務提携を産経新聞社フジテレビジョンニッポン放送文化放送と結び、フジサンケイグループとの関係が生じる。この時点で経営主体はフジサンケイグループに移る。主催試合を系列のフジテレビで中継するために、本拠地を後楽園球場から神宮球場へ移転する。
、7月30日、金田正一が入団2年目の1951年から14年連続となるシーズン20勝を達成〔。61勝74敗5分、首位阪神と18.5ゲーム差の5位に終わる。同年オフ、林義一の監督更迭・留任を巡り産経新聞と国鉄は激しく対立。エースの金田が「林監督がそのまま続投した場合移籍するが、解任された場合は残留する」との声明を出したことから国鉄は頑として林の更迭を主張、一方の産経サイドは他社マスコミ(読売新聞朝日新聞毎日新聞)により「林監督更迭」のスクープを先取りされていたことがあり、議論は平行線を辿り最終的には経営主体の産経サイドが意見を押し切った。林は留任し、金田は10年選手の特権を行使して巨人に移籍した。金田を失ったことにより国鉄は経営意欲を完全に喪失し、フジサンケイグループへ経営権を全て譲渡して経営から撤退することとした。もとより国鉄球団は業務提携後フジサンケイグループの資金力に丸々依存しており、移譲は時間の問題と見られていたが、喧嘩別れで球団譲渡という結末となった。
4月23日、国鉄は球団の経営権をサンケイ新聞とフジテレビに譲渡することを発表し、5月10日サンケイスワローズ( ''Sankei Swallows'' )に改称。サンケイ初年度となったが、国鉄初年度以来の90敗以上となる、44勝91敗5分。首位巨人とは45.5ゲーム差となった。この年からドラフト会議が行われているが、1位河本和昭をはじめ11名中9名が入団拒否〔指名後の入団交渉不実施による失効を含む。〕している〔ただしこの時代はサンケイに限らず、指名されても入団拒否したり、指名しても交渉を実施せずそのまま失効する者は多かった。〕。
1月7日、少年野球ファン開拓のためという理由に加え、手塚治虫が当時球団後援会副会長(会長は徳川夢声)だったという経緯もあって鉄腕アトムをペットマークに使い、チーム名をサンケイアトムズ( ''Sankei Atoms'' )に、運営会社名を株式会社サンケイアトムズに改称。同年ヤクルト本社が株式を取得して球団運営に参加。これに伴い球団旗も当時の産経新聞の社旗をアレンジしたものを使っていた。52勝78敗で大洋と並んで5位、首位の巨人とは37ゲーム差。
、58勝72敗5分で首位の巨人と26ゲーム差の5位。武上四郎が新人王を獲得。
、1月28日、神奈川県横須賀市武山球場が完成、二軍本拠地となる。5月26日には対広島戦に勝利し、球団通算1000勝を達成。来日2年目のデーヴ・ロバーツが40本塁打を打つなどして、ベストナインを獲得。投手では石戸四六がチームとしては金田正一以来となるシーズン20勝を挙げる。64勝66敗4分、首位の巨人とは13ゲーム差の4位。
ボブ・チャンスが24試合で12本塁打を記録した。58勝69敗3分で、首位の巨人と16.5ゲーム差の5位。産経新聞は本体の業績不振のため株式の一部をヤクルト本社へ売却。球団経営に積極的だった産経新聞・フジテレビジョン社長の水野成夫が病に倒れ、後を継いだ鹿内信隆がフジサンケイグループの事業見直しを行った結果、不採算だったプロ野球球団経営からの撤退、資本関係のみの継続を決めたもの。当時、ヤクルト本社は水野とは旧知の間柄だった南喜一が代表者を務めていた。表面上は共同経営とし球団名をアトムズ( ''Atoms'' )と、運営会社名を株式会社アトムズ球団としたが、実質経営権はヤクルト本社が握った。
1月7日にはヤクルト本社が公式に単独で経営権を持ち球団名をヤクルトアトムズ( ''Yakult Atoms'' )に、運営会社名を株式会社ヤクルトアトムズに改称となり、チームカラーもヤクルト本社の社色である赤・白・緑のものとなった(球団旗やユニフォームなどに使用)。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「東京ヤクルトスワローズ」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Tokyo Yakult Swallows 」があります。




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