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ヤッシーの講和(ヤッシーのこうわ、、、)は、ロシア帝国とオスマン帝国のあいだで結ばれた条約。1787年から始まった露土戦争(第二次露土戦争)の講和条約で、露暦(ユリウス暦)1791年12月29日(西暦(グレゴリオ暦)1792年1月9日)にモルダヴィアのヤッシー(ヤシ、ヤッスィー)で調印された。 :本項で使用する年月日は、特に断りのない場合はユリウス暦のものである。 == 経緯 == ロシア帝国は、1768年から1774年までつづいた対トルコ戦争(第一次露土戦争)でオスマン帝国軍を相手に戦いを有利に進め、1774年7月、トルコとの間にキュチュク・カイナルジ条約を結んで黒海沿岸地方への進出を果たした〔土肥(2002)pp.90-91〕。この条約により、クリミア・ハン国に対するオスマン帝国の宗主権は否定され、一方のロシアはボスポラス海峡の自由航行権を得た〔『ラルース 図説 世界人物百科II』(2004)p.437〕。ロシア帝国は、こののちウクライナに近接する黒海北岸地方の開拓を急速に進めていったが、その中心となった人物は女帝エカチェリーナ2世の寵臣で、女帝とは愛人関係にあったグリゴリー・ポチョムキンであった〔。エカチェリーナ2世は、1775年にポチョムキンを「ノヴォロシア」(「新ロシアの意」)と名づけた黒海沿岸の県(グベールニヤ)の県知事に任命し、同年4月、ロシアはトルコ側が条約に違背したとして、これを口実にクリミア半島の領有を進めた〔〔「新ロシア」とは、現在のヘルソン州にほぼ相当し、戦後はムィコラーイウ州、オデッサ州も加わった。今日では、この3州は「南ウクライナ」と総称されることが多い。〕。翌1776年、ポチョムキンは黒海艦隊を編成し、クリミア半島の先端に、防衛拠点として、また将来的な対外進出の基地としてセヴァストポリの軍港建設に着手した。 クリミア半島は、オスマン帝国の側からすれば対ロシア攻撃の橋頭堡として重大な役割をになってきた要衝であったが、これ以後は逆に、ロシアの南下政策にとって不可欠の戦略拠点となった〔〔エカチェリーナ2世はポチョムキンに対し、それまでの功績を賞し、帝都サンクトペテルブルクにタヴリーダ宮殿を下賜し、「ダヴリーダ公」の称号をあたえた。ダヴリーダ宮殿の建設は1783年にはじまり、6年の歳月をかけて完成している。〕。 一方でエカチェリーナ2世は、1782年、「ギリシア計画」にもとづいてオーストリア(神聖ローマ帝国)のヨーゼフ2世とのあいだにバルカン半島分割の秘密協定を結び、1783年、「クリミア・ハン国独立」の名においてクリミア併合を宣言した〔「ギリシア計画」とは、バルカン半島にコンスタンティノープルを首府とするギリシア帝国を建設し、その皇帝にエカチェリーナの孫にあたるコンスタンチン・パヴロヴィチを戴こうという計画。発案したのはポチョムキンともいわれている。土肥(1994)p.90〕。長年属国としてきたクリミアがロシアに支配されることを屈辱とする意見が強まったオスマン帝国はこれを認めず、1787年4月にロシアに対して宣戦布告、露土両国はその後4年にわたって再び戦火を交えた(第二次露土戦争)〔〔土肥(2002)pp.196-197〕。オーストリアも、ロシアとの協定に呼応してトルコ領に侵入した()。この戦争でオーストリア皇帝のヨーゼフ2世はセルビア人たちにオーストリア軍に加わるよう檄を飛ばし、数多くのセルビア人がトルコに対し武装蜂起した。露土戦争では、名将アレクサンドル・スヴォーロフの指揮下、陸戦、海戦いずれにおいても終始ロシア側が優位に立った。しかし、フランス革命の影響、軍隊の疲労、プロイセンのポーランド介入、オーストリアの戦争離脱による孤立化等により講和に傾いた〔高橋(1988)p.135〕。露暦1791年(ヒジュラ紀元1206年)、フランス・イギリス両国の干渉もあって、モルダヴィア(現在のルーマニア)のヤッシー(ヤシ)において講和会議が開かれた〔〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヤッシーの講和」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Treaty of Jassy 」があります。 スポンサード リンク
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