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大和ホテル ヤマトホテル[やまとほてる]
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ヤマトホテル[やまとほてる]
ヤマトホテルは、かつて南満州鉄道株式会社が経営していた高級ホテルブランド。1907年から1945年まで満鉄線沿線の主要都市を中心にホテル網を展開していた。ヤマトホテル以外の直営ホテルと合わせて満鉄ホテルチェーンと総称された。 ==概要== 南満州鉄道(満鉄)は日露戦争によって獲得した鉄道経営権を元に設立されたが、長春~大連間を縦断する満鉄線を欧亜連絡鉄道に組み込んで上海・香港航路〔満鉄は海運業も営んでいた。1908年8月に大連~上海の定期航路を開設、1913年10月には香港・広州など中国沿海の都市への定期航路を開設した。1909年7月に社外委託から直営事業に切り替えたが、海運業もまた赤字続きの事業であった。経営効率化のため、1922年までに全ての航路を子会社の大連汽船株式会社に譲渡している。(西澤泰彦 『図説満鉄「満洲」の巨人』 46-47頁)〕へと繋げる一大幹線とするためには、その沿線に西洋人が快適に滞在できるホテルを確保することが必須であった〔旅館業は満鉄設立時からの正式な業務だった。1906年8月1日に政府から満鉄設立員会へ出された命令書の中で、主要駅に旅客の宿泊・食事に必要な設備を整備するように指示している。(西澤泰彦 『図説満鉄「満洲」の巨人』 19頁)〕。初代総裁・後藤新平が掲げる「文装的武備」の思想の下で多角経営を進めた満鉄は、ホテル網の展開も率先して進めていった。こうしてできたヤマトホテルは西洋人旅客を招致するとともに、満鉄の迎賓館としても機能する西洋式の高級ホテルとなった。しかし、満鉄はホテルを鉄道事業と満州開発を支える手段と考えて採算を度外視したため、ホテル事業単体では利益の出ない体質だったとされる。1928年(昭和3年)1月1日に旅館事業と食堂車経営を満洲旅館株式会社(資本金800万円)として独立させたが、1931年(昭和6年)4月1日には再び満鉄直営に戻している〔財団法人満鉄会『満鉄四十年史』、520-556頁(満鉄関連年表)。〕。満鉄は1945年(昭和20年)の敗戦に伴い解体されたが、一部の旧ヤマトホテルは現在もホテルとして営業を続けている。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヤマトホテル」の詳細全文を読む
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