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ヤマノシラギクは、1980年代に活躍した日本の競走馬。 京都大賞典を2度制すなど重賞3勝。日本中央競馬会の10箇所の競馬場すべてで出走した馬として知られている〔「近年名脇役の肖像」『優駿』1993年10月号、日本中央競馬会、10頁〕。現在でいうGI競走での勝利はないものの、牡馬相手の古馬重賞でもたびたび好走をした1980年代を代表する牝馬の一頭である。 父はオーバーサーブ、母はホンマルクイン。ファミリーラインは小岩井農場の基礎輸入牝馬の一頭であるビューチフルドリーマー系である。近親に「美少女」タマミがいる。 ※馬齢はすべて旧表記(数え年)にて表記する。 == 戦績 == 1981年6月、札幌競馬場での3歳新馬戦でデビューし2戦目で勝ち上がった。その後はなかなか勝てないものの、京都3歳ステークスでは同世代最強の呼び声が高かったサルノキングと好勝負を繰り広げての2着となり、また阪神3歳ステークスでもリードエーティの2着に入り翌年の牝馬クラシック戦線の主役候補として期待された。 4歳になり2連勝して桜花賞の制覇の期待も大きかったが、故障が判明して桜花賞を回避した。故障から復帰してオークスやエリザベス女王杯には出走したものの、上位入着はできなかった。 5歳になってからは長期の休養を取ることなく小倉、新潟、中京などのローカル重賞の制覇を狙って転戦するものの、なかなか勝利を収められなかった。秋になってようやく京都大賞典を制した。その後も休みなく各競馬場を転戦して、その当時の重賞には欠かせない名脇役となっていった。札幌、函館、新潟、福島、中山、東京、中京、京都、阪神、小倉からなる中央競馬の10箇所の競馬場全てで出走を果たしたことでも話題となった。戦績も牝馬としてはなかなかのもので、6歳で小倉大賞典、7歳で再び京都大賞典を制した。 1985年12月、7歳で有馬記念に出走したのを最後に現役を引退した。 ヤマノシラギクというとローカル重賞のイメージが強いが、実は全7勝のうち5勝を京都競馬場で挙げるなど、強力なメンバーが揃う京都や阪神で好走した一方、ローカル開催ではあまり勝てていない。それゆえローカル重賞では人気を集めては勝てず、人気を落として京都で大穴を出すという馬になっていた。 またローカル開催が活動の中心ということもなく、天皇賞と宝塚記念には3回挑戦し、ジャパンカップと有馬記念にも1回出走している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヤマノシラギク」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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