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ヤマブキオー[ちょうおん]
ヤマブキオーは日本の競走馬。2013年現在中央競馬で通算20勝を記録した最後の馬である。 == 解説 == 父パーソロンの中期の代表産駒として知られ、故障がちながら、1972年のデビューから1978年の引退(有馬記念15着)まで息の長い活躍をした。典型的な中距離馬で、芝コースの1800 - 2000メートルの距離を得意とし、昭和の名マイラーとの異名を取った。また、斤量負けしないタイプで、オープン特別の巴賞で62キログラムを背負って勝利し、直後の函館記念でも63.5キログラムの斤量を克服し最後の直線で鋭く抜け出し勝利している。 おもな勝利は中京記念、ダービー卿チャレンジトロフィー、中山記念、京王杯スプリングハンデキャップ、金鯱賞、函館記念。ほか地方競馬招待競走にも優勝している。当時森末之助厩舎には4人の騎手が在籍しており、そのうち蓑田早人で中京記念・函館記念、小林常泰でダービー卿チャレンジトロフィー、徳吉一己で中山記念・京王杯スプリングハンデキャップ・金鯱賞を制した。重賞を6勝したが、旧八大競走には縁がなかった。 クラシック競走には出走していないが、同期のハイセイコーとタケホープ引退2走前の対決であった1974年11月9日の東京競馬場芝1800メートルの平場オープンで、2頭を差し置いてレースを制したのも同馬である〔このレースは秋の天皇賞への重要なステップレースで、8頭立てではあったものの、ヤマブキオー・ハイセイコー・タケホープの3頭以外にも、前年の有馬記念の覇者ストロングエイトをはじめ、ディクタボーイ、メジロスイセイの重賞勝ち馬が出走するという、下手な重賞競走よりもメンバーの揃った一戦であった。またレースは関西地区の競馬中継でも同時中継された。〕。当時は1開催に1、2レース設定されていた平場オープン戦に強かった(7勝)ため、「オープン大将」なる愛称でも知られた。 1979年1月15日に東京競馬場で引退式が行われ〔『優駿』1979年3月号、pp.84-85〕、引退後は十勝軽種馬農協に寄贈され〔種牡馬となった。1983年に受精能力が突如低下し、のちに睾丸の病気が判明〔日本中央競馬会『優駿』1985年10月号、p.174〕。1984年8月6日、心臓麻痺のため繋養先の帯広畜産大学で急死した〔。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヤマブキオー」の詳細全文を読む
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