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ヤユク・バスキ : ウィキペディア日本語版
ヤユク・バスキ

ヤユク・バスキYayuk Basuki, 1970年11月30日 - )は、インドネシアジョグジャカルタ出身の元女子プロテニス選手。芝生コートを最も得意とし、1997年ウィンブルドンでベスト8に進出した。WTAツアーでシングルス6勝、ダブルス9勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス19位、ダブルス9位。身長164cm、体重56kg、右利き。
== 来歴 ==
7歳からテニスを始め、1990年10月にプロ入り。1991年タイパタヤ市の「ボルボ女子オープン」決勝戦にて、日本の沢松奈生子を 6-2, 6-2 で破ってツアー初優勝を果たし、インドネシアのテニス選手として史上初のプロツアー優勝を飾った。同年の全仏オープン4大大会にデビューし、全仏では1回戦で敗退したが、ウィンブルドン3回戦で第1シードのシュテフィ・グラフに挑戦した。
1992年4月、マレーシアクアラルンプールの大会でツアー2勝目を達成。この年のバスキは国際舞台でも好成績が多く、全豪オープン3回戦でモニカ・セレシュに挑戦し、ウィンブルドンでは前年を上回る4回戦でマルチナ・ナブラチロワと対戦した。同年のバルセロナ五輪でも活躍し、女子シングルス2回戦でフランス代表のマリー・ピエルスを 0-6, 6-3, 10-8 で破った後、3回戦で当時16歳のジェニファー・カプリアティに 3-6, 4-6 で敗れている。1992年から1995年まで、バスキはウィンブルドン選手権で「4年連続」4回戦に進出した。バスキはダブルスでも宮城ナナとペアを組むことが多く、この組み合わせで1993年全米オープン女子ダブルスベスト4に入った。
1994年にバスキは自身のコーチであると結婚した。
1997年、バスキはついに最も得意なウィンブルドンで自己最高のベスト8進出を果たす。この大会では1回戦で杉山愛、3回戦で雉子牟田直子に勝ち、2人の日本人選手を破って勝ち進んだ。初めての準々決勝で、バスキはヤナ・ノボトナに 3-6, 3-6 で敗れた。1998年全豪オープンでは、バスキは4回戦でマルチナ・ヒンギスから1ゲームも奪えずに 0-6, 0-6 で敗れている。1999年全豪オープンで1回戦敗退に終わった後、バスキは出産のため1年余り試合から遠ざかる。9月23日の出産後、バスキは2000年3月にツアーへ復帰し、この年もウィンブルドンで3回戦に進出した。2001年以後はシングルスから遠ざかり、ダブルスに出場試合を絞ったが、2004年1月にインドハイデラバード・オープンの女子ダブルス出場を最後に33歳で現役を引退した。
その後バスキは2008年にダブルスで現役復帰した。2010年全豪オープンでは同じ年のクルム伊達公子とペアを組み主催者推薦で女子ダブルスに出場した。1回戦でサニア・ミルザ&ビルヒニア・ルアノ・パスクアル組に 4-6, 2-6 で敗れている。2012年3月まで下部ツアーであるサーキット大会を中心に出場した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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