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ヤルコ・ニエミネン : ウィキペディア日本語版
ヤルコ・ニエミネン

ヤルコ・カレルヴォ・ニエミネン(Jarkko Kalervo Nieminen, 1981年7月23日 - )は、フィンランド・マスク出身の男子プロテニス選手。ATPツアーでシングルス2勝、ダブルス5勝を挙げたが、シングルスで11度の準優勝がある。身長185cm、体重78kg、左利きの選手。自己最高ランキングはシングルス13位、ダブルス42位。夫人のアヌ・ニエミネンバドミントンのフィンランド代表選手である。
== 来歴 ==
両親とも化学者という家庭に生まれ、4歳からテニスを始める。ジュニア時代、1999年全米オープン男子ジュニアシングルス部門でクリスチャン・プレスデンマーク)を破って優勝した。2000年にプロ入り。2001年スウェーデンストックホルムの大会で、初めて男子ツアー大会の決勝に進出したが、オランダチャン・シャルケンに敗れて準優勝になった。2002年は2度、2003年は1度準優勝があったが、なかなかツアー初優勝に手が届かずにいるうちに、テニスキャリアにもしばらく低迷期が訪れた。
2005年6月11日にアヌ・ヴェックストロームと結婚。その3か月後、ニエミネンはようやく4大大会で最初の好成績を出し、フィンランド人のテニス選手として初めて全米オープンで準々決勝に進出した。同じ年のレイトン・ヒューイットと一進一退の好勝負を展開したが、結局 6-2, 1-6, 6-3, 3-6, 1-6 のフルセットでヒューイットに敗れている。2006年1月9日、ニュージーランドオークランドの大会の決勝戦でクロアチアマリオ・アンチッチを 6-2, 6-2 で破り、宿願のツアー初優勝を果たした。この年はウィンブルドンで初めての準々決勝に進出したが、第2シードのラファエル・ナダルに 3-6, 4-6, 4-6 のストレートで敗れた。
2007年9月、ニエミネンはインドムンバイ大会のダブルスでロベルト・リンドステットスウェーデン)とペアを組み、男子ツアーのダブルスで初優勝を果たした。
2008年、ニエミネンは全豪オープンでも初めてのベスト8入りを決めたが、ここでもナダルに 5-7, 3-6, 1-6 のストレートで敗退した。これで彼の4大大会シングルス成績は、全仏オープン以外の3大会で8強入りしたことになる。同年の全米オープンでは、シングルスは3回戦でフェルナンド・ゴンサレスチリ)に敗れたが、リンドステットと組んだ男子ダブルスで初のベスト8に進出した。
2006年に初優勝してから決勝では6大会連続で敗退が続いていたが、2012年1月のシドニー大会でジュリアン・ベネトーを 6–2, 7–5 で破り6年ぶりのツアー2勝目を挙げた。
2015年3月12日、通算400勝達成。10月のストックホルム・オープンを最後に現役を引退した。
ニエミネンは2004年から2015年までの12年間で、2009年を除き11回東京のジャパン・オープンに出場している。
デビスカップ2016のジンバブエ戦に復帰すると、カートニ―・ジョン・ロックを6-0, 6-0, 6-0で破り、オープン化後以降9人目のトリプル・ベーグル達成者となった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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