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ヤルメラ : ウィキペディア日本語版
ヤルメラ

ヤルメラ(Yarumela、研究者によっては「ジャルメラ」とも)は、ホンジュラス中央部からやや東部のラ・パス県に位置する形成期〔ヤルメラの発掘調査や研究を中心的に行ってきたディクソンは、「先古典期」(Preclassic)ではなく、「形成期」(Formative)という用語を用いている。後述する研究史に関する記述からもアメリカの研究者にマヤ文明の編年を意識させる編年用語である「先古典期」を避けてヤルメラがマヤ遺跡ではないと示そうとしているようにも思われるが、むしろG.R.ウィリーやフィリップスが提唱した南北アメリカ共通の編年用語である「形成期」を用いているとみるべきと思われる。本稿でもディクソンに従い形成期の語を用いることとする。〕段階の遺跡である。遺跡は、カリブ海にそそぐウルア(Ulua)川の支流、コマヤグア(Camayagua)川の一部をなす小河川であるウムヤ(Humaya)川の西岸、比高差10mほどの河岸段丘上でもひときわ小高くなった標高600m前後の島状の台地上に30ha近い範囲にわたってひろがり、中心部には少なくとも15基のマウンドが確認されている。
レンカ語を話す人々によって、紀元前1000年くらいから居住が開始され、A.D.200年頃まで営まれた祭祀センターであると考えられている。それより後の時代から後古典期にかけては、埋葬と居住は散在的にはみられるようであるが祭祀センターとしては機能していない状態となる。
ヤルメラはカリブ海と太平洋、メキシコグアテマラを結ぶ交易の要衝に位置していたため、形成期には、コマヤグア河谷で最大のセンターとなった。ヤルメラ周辺では確認できない植物遺存体、グアテマラ産のヒスイや太平洋産及びカリブ海産の貝でできた装飾品、メキシコ中央高原産の黒曜石大理石製の碗の破片などの出土品も確認されている。
==ヤルメラの発見と調査史==
ヤルメラの遺跡が発見若しくは記録上最初に訪問されたのは、19世紀中葉に、エフライム・G.・スクワイヤー〔北米のアデナ文化ホープウェル文化ミシシッピ文化の遺跡を数多く踏査し、1848年にエドウィン・デーヴィスとともに大著『Ancient Monument of Mississippi Valley』を著した。〕による踏査によってであるとされる。スクワイヤーは、コマヤグア河谷を大陸縦断鉄道沿いに踏査を行った際にこの遺跡を発見し、上流のちいさな村にちなんでこの遺跡をヤルメラと命名した。スクワイヤーは、ヤルメラについて詳細に記録し、当時は現在よりも遺跡の保存状態がよかったことがわかっている。
20世紀に入ってからの中米考古学の踏査記録でヤルメラについては二件の記録が知られている。ひとつは、1926年のサミュエル・K・ラスラップによるもので、Tenampuaに訪れる途中でヤルメラ付近を通過している。もうひとつは、イェンス・イウデ(Jens Yde)によるチューレイン大学デンマーク国立博物館の調査隊によるものである。この調査隊は直接発掘調査は行わずにヤルメラの遺物とするものを紹介しており、実際にそうなのか疑念をもつ研究者もいる。
1930年代に、コマヤグア教区の司教であるフェデリコ・ルナルディ(Moseno Federico Lunardi)がヤルメラに関心を持ち、ルナルディ司教は、1948年に著書を公刊して、構築物103号の下方にウムヤ川の湾曲部と三日月湖があったこと、構築物101号とその付近から出土した破片についてマヤのものとして紹介した。
ヤルメラについて、初めて学術的な団体によって本格的な調査が行われたのは、20世紀中葉になってからである。最初に挙げられるのは、ヨエル・キャンビー(Joel Canby)によるヤルメラの周辺部の試掘調査である。キャンビーは、土器編年を確認するために行ったこの試掘で、ヤルメラの遺物がコパンの古期ないし先古典期の遺物と同じと言っていいほど共通していることを確認した。
1957年および1972年には、ドリス・ストーンによって調査が行われた。表面採集〔一般調査を参照。〕の成果だけでもメソアメリカ南東部地方の形成期段階の発展を示唆する遺物があることが確認され、ストーンは報告書に実測図と詳細な記述を掲載し、ヤルメラがコマヤグア河谷にとどまらず、中央アメリカ全体でも学術調査が必要な重要な遺跡であることを示した。
クロード・ボーデ(Claude Baudez)は、ヤルメラを訪れただけでなく、ヤルメラに近いLo De Vaca遺跡の調査を行うとともに表面採集をおこない、その成果を1966年に発表した。キャンビーやストーンの調査を踏まえ、その所見が正しいこと、河谷単位でまたがってロス・ナランホスやプラヤ・デ・ロス・ムエルトスなどホンジュラス北部の遺跡にみられる土器複合を含めて、居住システムのなかに位置づけられるとした。
1980年にJ-マンデヴィル(L.R.V.Joesink-Mandeville)による南米とメソアメリカの形成期段階での土器複合の関連を調べることも目的としたプロジェクトの一環での大規模な発掘調査がヤルメラで行われた。まず、以前キャンビーが調査を行ったマウンドがない場所で3度にわたる調査が行われ、1986年にその成果が報告された。
1988年から1990年の間にも3度にわたってヤルメラのより古い時期の遺構プランに焦点をしぼった
発掘調査が行われた。つまり、ヤルメラにおいて、社会階層がどのように発生し、そうして成立した支配階層がどのように建築活動を行ってきたかを知ることを目的として、祭祀などのような公共的な目的のために建てられた建造物が繰り返し構築されるその個別の建物について記録する調査であった。
これらのふたつの研究のほかに、1985~1987年にかけてディクソン(Boyd Dixon)によって、地域性による違いや明確な共通する基準がないか、ヤルメラの形成期の政体が発生した時期に文化が伝播する通路として、高地の河川がどのような役割を果たしたのかを調べるためにコマヤグア河谷の10%に及ぶ範囲をランダムに踏査が行われた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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