|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ラフ : [らふ] 1. (adj,n) rough 2. (adj,n) rough
ヤロスラフ・ウラジミロヴィチ(ウラジミルコヴィチ) / ヤロスラフ・オスモムィスル(、1130年頃 - 1187年10月1日)はガーリチ公ウラジーミル(ウラジミルコ)の子である(母はハンガリー王カールマーン1世の娘。名はおそらくZsófia)。通称の「オスモムィスル(Осмомысл)」は8人の知恵を持つ者、すなわち優れて聡明な者を意味する言葉であり、日本語文献では「八重に賢き」等と表現されている〔中村喜和『イーゴリ軍記』p217〕。 ==生涯== ガーリチ公位の確立 1149年、スーズダリ公ユーリー・ドルゴルーキーの娘・オリガと結婚した。それはヤロスラフの父ウラジーミルと、ユーリーとの同盟を記念したものだった(共にキエフ大公イジャスラフと対立関係にあった)。1153年に父が死に、ガーリチ公位を継いだのちに、父の代から係争地となっていたヴォルィーニの都市をかけてイジャスラフと戦った。しかし1154年のテレボヴリの会戦(ru)では大損害を受け、最終的にはガーリチ軍の多くを捕虜として奪われた。イジャスラフは、捕虜とヤロスラフの長子権(ru)とを交換にして引き上げた。ただし、同年イジャスラフは死亡する。 1158年、ヤロスラフと、キエフ大公イジャスラフ(上記の人物とは別人)との間に争いが生じた。それはヤロスラフの従兄弟であり、ガーリチ公位の返還を求めるイヴァン(イヴァンはヤロスラフの父の存命中の1144年に、武力を持ってガーリチ公位を奪っていた(ru)。)の身柄を確保しようとするヤロスラフに対し、イジャスラフが引渡しを拒否して保護したことによるものだった。ヤロスラフは他の諸公や、ハンガリー王、ポーランド諸公の後援を取り付けて、再度イヴァンの引渡しを要求したがイジャスラフは応じず、逆にイヴァンの扇動に乗り、ポロヴェツ族、トルク族、ベレンデイ族らを率いてヤロスラフへ攻撃をしかけた。ヤロスラフの同盟者であったヴォルィーニ公ムスチスラフはベルゴロド(ベルゴロド=キエフスキー)で包囲された。しかしベレンデイ族が裏切ったため、イジャスラフはベルゴロドからの撤退を余儀なくされた。翌年(1159年)、ヤロスラフとヴォルィーニ公ムスチスラフはキエフ大公位にロスチスラフを就けた(ロスチスラフの死(1167年)の後はヴォルィーニ公ムスチスラフがキエフ大公に就く。)。ヤロスラフと対立していたイジャスラフは1161年に、イヴァンは1162年に死亡した。以降、ヤロスラフは自身の死までガーリチ公国を統治し、他のルーシ諸公に対する大きな影響力を有した。そのドルジーナ(近衛兵)隊はポロヴェツ族への遠征を行い、ヤロスラフの名は遊牧民の間で恐れられた。 1164年、ビザンツ皇帝マヌエル1世に追われたアンドロニコスがガーリチに逃亡してきた(後にマヌエルとアンドロニコスは和解)。その後、1167年にハンガリー王国に対する同盟を締結した。1170年にはムスチスラフ(上記の同盟者ムスチスラフ)のキエフ大公位奪還戦(ru)を支援した。 ヤロスラフと同時代の(1185年の)ポロヴェツ族への遠征を題材とした『イーゴリ軍記』において、語り手である作者がルーシ各地の有力諸公に対し、団結して外敵とあたるべく呼びかける場面がある。そのうちヤロスラフに対する記述は以下のとおりである。 上記の記述はヤロスラフの権勢をうかがわせるものである。ヤロスラフはプルト川河口(ドナウ川に合流)の都市・マルィー=ガーリチ(小ガーリチの意。現ルーマニア・ガラツィ)を領有することで、ブルガリア、ビザンツ地域とのドナウ川交易を手中に収め、ガーリチ公国の交易・農業を発展させた。ヤロスラフの通称であるオスモムィスルは、その聡明さを称えるものであるとする説の他に、ヤロスラフが8種の言語を解したことに由来するという説がある。 ボヤーレとの確執 ただし、ヤロスラフのその対外的な権勢の高さにもかかわらず、国内では、隣国であるポーランド王国、ハンガリー王国の貴族政治を範として結束したボヤーレ(貴族)層の反発への対応を迫られた。ヤロラフとボヤーレとの軋轢は、ヤロスラフと妻のオリガとの関係が決裂した時期に特に高まった。1171年、オリガは息子のウラジーミルと共にポーランドへ亡命した。ヤロスラフはこの時、アナスタシヤという名の女性を愛しており、正統な妻子であるオリガとウラジーミルよりも、アナスタシヤとその子のオレグに愛着を示すようになっていた。反ヤロスラフ派のボヤーレのうち、コンスタンチンがオリガに付添いポーランドへ同行した。他のボヤーレたちはガーリチで反乱を起こすと、アナスタシヤを捕らえて焼き殺し、ヤロスラフに、オリガと和解することの宣誓を強いた。(結局は、翌年にはオリガとウラジーミルは、ウラジーミル(オリガはウラジーミル・スーズダリ公国出身。)へ逃亡している。)結果的には、ヤロスラフはボヤーレに渡った権力の回復には至らなかった。 死と継承者 ヤロスラフは1187年にガーリチで死亡し、生神女就寝大聖堂に埋葬された。その地位は庶子であるオレグに譲られ、正妻の子であるウラジーミルはペレムィシュリを受領した。その後オレグは毒殺され、ガーリチ公位は一時ウラジーミルの手に渡るが、ウラジーミルの死後、その子達がガーリチ公位を継ぐことはなく、ヤロスラフの血統は途絶えた。ガーリチ公位にはガーリチのボヤーレによって招聘された、隣国・ヴォルィーニ公国のロマンが就き、両国を併せたガーリチ・ヴォルィーニ公国が成立することになる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヤロスラフ・ウラジミロヴィチ (ガーリチ公)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|