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ヤングパラダイス (Young Paradise) は、1983年5月2日から1990年3月28日まで月曜から木曜の22:00 - 24:00にニッポン放送で放送されていたラジオ番組(ブロックワイド番組)。通称ヤンパラ。 == 概要 == === 高原兄時代=== 放送開始当初はヒット曲『完全無欠のロックンローラー』で知られるアラジンのグレート高原こと高原兄がパーソナリティを務めた。なお、この時の正式な番組名はヤングパラダイスで、高原兄のヤングパラダイスではない(当初は日替わりアシスタントが存在し、月曜:原田知世、火曜:原真祐美、水曜:松居直美、木曜:斉藤ゆう子。 1983年10月から原田知世は同胞番組の『ライオンミュージックヴィレッジ』枠内に原田知世 星空愛ランド、原真祐美は文化放送の裏番組内に箱番組を担当・転出に伴い、月曜、火曜は日替わりパートナーに変更)。 番組オープニングテーマはザ・ベンチャーズが演奏する弾厚作作曲の『ブラック・サンド・ビーチ』。 エンディングテーマはビージーズの『愛はきらめきの中に』が使用された。 番組中のジングルは安部恭弘が担当。 この時は一曲目当てクイズ、他に22時40分頃から中継コーナー『ジャンケンマン』(担当上柳昌彦アナ)、23時からのクイズコーナーが『クイズの王様』(放送作家の和田誠)、テーマソングは高中正義のマンボNo.5などのコーナーが有り、木曜日は『女子高生でいっぱい!夜のパジャマパーティー』という、女子高生を交えた企画を行っていた。 また高原の後任となる三宅裕司らスーパー・エキセントリック・シアターが出演するコーナーがこの時から存在していた。 そして1983年12月14日には沢田研二、横山やすし、世良公則、藤岡琢也が出演したラジオドラマ『ドラマやでワレ!唐獅子株式会社』という企画も行っている。 番組晩年には、三宅時代にレギュラーコーナー化される「これは知らね〜だろ」等がテストを兼ねて放送された。 番組途中からは当時新人ディレクターの鳥谷規が時報マンとして、23時と午前0時の時報を担当した。時折、当時プロデューサーの宮本幸一現専務取締役の突っ込みが入ったりしていた。 番組はニッポン放送本社ビル4階の一番奥にあった第5スタジオから生放送されていた。スタジオの壁を番組キャラクターのマイク・ストロベリーにちなみピンクに塗り替え、テーブルはショッキングピンクの物を使用するなど徹底していた。スタジオ内には番組放送時に撮影した写真が貼られていた。 最終回のエンディング前に、高原がこの日のために書き下ろした『ヤンパラ聴いてくれた ラジオの前のみんなに捧げる歌(仮タイトル)』を生ギターで弾き語りした(使用ギターはギブソンのアコースティックギター)。ちなみにこのギターで『完全無欠のロックンローラー』が作曲された。 なお金曜日はコント赤信号によるヤングパラダイスフライデースペシャル〜恋する電リク ザ・マイクストロベリーショーが放送されていた。 マイクストロベリーはフロリダ生まれの男の子という設定で、ヤングパラダイス番組キャラクターとして出演していたが、実際はアメリカ人の女の子が担当していた()。 当時ニッポン放送アナウンサーの木村篤(後に報道部記者として長く活躍)がテレフォンセンター担当で出演していた。 ゲスト回数トップは最終回のゲストでもあった堀ちえみの8回。最終回には、小泉今日子、石川秀美、早見優、田原俊彦らが電話出演した。なお、スタジオと田原との電話中にマイクストロベリーに向かって「だって女の子じゃん!」とネタバレがあったり、当時文化放送でレギュラーを持っていた近藤真彦が飛び入りで出演するサプライズがあった。ちなみに1曲目はTHE ALFEEの星空のディスタンス、電リク第1位は松田聖子のRock'n Rougeだった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヤングパラダイス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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