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ヤン・カレンバッハ(Jan Kallenbach、男性、1943年生まれ - )は、オランダ出身の元柔道家、極真会館出身の元空手家で、現在は太氣拳七段教士である。カレンバッチとも呼ばれていたが、正しくはカレンバッハである。身長187センチメートル、体重110キログラム。極真会館在籍時代は、最強の外国人空手家と評されていた。〔 「特集・青春大山道場」『フルコンタクトKARATE』 福昌堂、12月号、1997年(平成9年)、23-24頁、35-36頁、40-41頁。〕〔 「伝説の大山道場」『新・極真カラテ強豪100人(ゴング格闘技1月号増刊)』 日本スポーツ出版社、1997年(平成9年)、58-61頁、67頁。〕 == 来歴 == 柔道を修行しながら、極真会館オランダ支部に入門。空手道と併せてそれぞれ5年以上修行し、柔道四段・極真カラテは参段を允許される。支部長ジョン・ブルミンの一番弟子となるが、この頃にはブルミンがカレンバッハとの組手を嫌がるほど実力をつけていた〔。そんなカレンバッハが、1966年に当地で指導していた黒崎健時の強さを目の当たりにし、本部道場で修行することを決意。1967年(昭和42年)に来日した。 誰にでも組手を申し込む積極的な姿勢で稽古をしていたが、その強さは本部道場の茶帯を総崩れにし、黒帯の加藤重夫・盧山初雄・山崎照朝らが苦戦して、他の黒帯面々もタジタジであった。 唯一カレンバッハを制したのが当時、黒崎の渡欧中に成増支部を預かっていた大沢昇であった。カレンバッハは前に出て攻撃したが「(大沢は)スピードがあり、懐に飛び込んできて太腿の内側に膝蹴りなどをしてきて怖かった」という。大沢とカレンバッハの闘いを見ていた山崎は「約30分間続いたが、自分のペースに持ち込めなかったカレンバッハが根負けをして、終わった。闘いの後、カレンバッハはグッタリしていたが、彼の顔には強者と闘った満足感があった〔山崎照朝 『無心の心』 スポーツライフ社、1980年(昭和55年)、151頁、211-213頁。〕」と証言している。 その後、カレンバッハは空手道の反復練習よりも、もっと奥深さとか神秘に触れたいと思い始めていた。その頃、極真会館を禁足〔道場の稽古、出入りを禁止されること。破門よりは軽い処分。〕処分になり、太氣拳を修行していた盧山からその一端を教わった。興味を持ったカレンバッハは盧山に頼み込み、太氣拳の始祖澤井健一を紹介してもらう。 その後、極真会館を離れ、沢井の下で太氣拳を修行し、現在に至る。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヤン・カレンバッハ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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