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ヤン・ディスマス・ゼレンカ : ミニ英和和英辞書
ヤン・ディスマス・ゼレンカ
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ヤン・ディスマス・ゼレンカ : ウィキペディア日本語版
ヤン・ディスマス・ゼレンカ

ヤン・ディスマス・ゼレンカJan Dismas Zelenka, 1679年10月16日 - 1745年12月23日)は、ボヘミア(現在のチェコ)に生まれ、ザクセン選帝侯国ドレスデンで没した作曲家である。
ザクセン選帝侯に仕え、宮廷カトリック教会作曲家として主にドレスデンで活動し、実質的な宮廷副楽長として宗教音楽を多数作曲した。当時ライプツィヒ聖トーマス教会カントルだったヨハン・ゼバスティアン・バッハ大バッハ)とは面識があり、彼がゼレンカを高く評価したことが知られている〔大バッハの次男カール・フィリップ・エマヌエル・バッハと弟子ヨハン・フリードリヒ・アグリコーラが著した『故人略伝』によると、大バッハが晩年に評価した音楽家は、フックスカルダーラヘンデルカイザーハッセ、グラウン兄弟(ヨハン・ゴットリープ・グラウンカール・ハインリヒ・グラウン)、テレマン、ゼレンカ、ベンダらであったという。同趣旨のことが、礒山 (1985年) p.214-p.215 に記載。〕。
第二次世界大戦中に失われた作品もあるが、遺されたものが再発見され、オーボエ奏者のハインツ・ホリガーの『6つのトリオ・ソナタ』の演奏・録音による紹介などから、20世紀中葉以降になって改めて評価されている作曲家の一人である。
== 生涯 ==
ヤン・ディスマス・ゼレンカ〔氏名のチェコ語での発音はリンク先を参照。 http://ja.forvo.com/word/jan_dismas_zelenka/#cs〕は、1679年10月16日、現在のチェコのプラハ近郊で、イジィク・ゼレンカ〔Jiřík Zelenka 父親は職業音楽家で、この地の教師兼オルガニストであり、後に教会のカントルとなっている。 Stockigt (2000年) p.1〕とマリア・マグダレーナの間の長男として生まれた。
ゼレンカはプラハのコレギウム・クレメンティヌムというイエズス会系の学校で教育を受けたと考えられている。初めての作品の記録は、1704年にこの学校で演奏された、伯爵〔Heřman Jakub Černín ヘルジュマン・ヤコプ・チェルニン伯爵は資産家で有力なボヘミアの貴族だった。 Stockigt (2000年) p.3〕の先祖の武勲を記念した学校劇『月桂樹の道(Via laureata)』であるが、現在は失われてしまったために詳細は不明である。彼は後にもこの学校に4曲の作品を書いている。
1709年、プラハの男爵(後に伯爵となる)〔Joseph Ludwig von Hartig (チェコ語表記:Ludvík Josef z Hartigu) ヨーゼフ・ルートヴィヒ・フォン・ハルティヒ男爵は、1709年当時ボヘミア王立裁判所陪席判事であり、プラハで皇帝名代を務めていた。 加藤 (1995年) p.2〕の宮廷楽団にコントラバス奏者として仕えたと推測されている。同年、クレメンティヌムのためにカンタータ『主は疫病をもたらし(Immisit Dominus pestilentiam)』を作曲。
1710年(あるいは1711年)にドレスデンのザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世(アウグスト強健王)の宮廷楽団のコントラバス奏者となる〔この宮廷楽団は優秀な音楽家を多数擁していた。 礒山 (1985年) p.89、フェーリクス (1999年) p.131-p.132〕。1711年、ドレスデンでの最初の作品『聖セシリアミサ(Missa Sanctae Caeciliae)』を作曲。
1714年には報酬が上がり、更に1715年11月には旅費が支給されて世子(後のフリードリヒ・アウグスト2世)イタリア旅行に随行。随行員には、後にドイツ随一のヴァイオリニストとして知られるヨハン・ゲオルク・ピゼンデル〔服部 (2001年) p.401〕も含まれていた。ただし、ゼレンカの使命はイタリアへの音楽留学ではなく、ヴィーンで宗教音楽を筆写してくること、当時の神聖ローマ帝国宮廷楽長シュテファン大聖堂楽長のヨハン・ヨーゼフ・フックスのもとで作曲を師事することであった。
1716年から約3年間ヴィーンに留まり、カプリツィオを作曲。同時期にフックスのもとに留学していたヨハン・ヨアヒム・クヴァンツ〔1718年、クヴァンツは当初オーボエ奏者としてドレスデンの宮廷楽団に入るが、そこでヨーロッパ屈指のフルート奏者ビュファルダンからフルートを学び、後にフリードリヒ大王のフルート教師となって名声を馳せる。 樋口 (1993年) p.193-p.194〕に対位法を教えている。1716年頃にフックスの推薦によってイタリアのヴェネツィアアントニオ・ロッティに師事したという説、アレッサンドロ・スカルラッティと会ったという説があるが確証はない。
1719年2月にドレスデンに戻り、コントラバス奏者としての活動を再開。彼の能力が認められたらしく、俸給も1720年には500ターラーにまで上がり、1721年には教会音楽の副楽長の座に就く。ちなみに1723年にトーマスカントルに就任した大バッハの収入は、加算手当や臨時収入を含めて年間ほぼ700ターラーであった〔フェーリクス (1999年) p.108-p.110〕。
1722年から11年間(1733年頃まで)はゼレンカの生涯においても最も多作であり、活動的な期間であった。当時の宮廷楽団では、カトリック教会にはヨハン・ダーフィト・ハイニヒェンが、プロテスタント教会にはが楽長職に就いていたが、前者が病弱だったために代理を務めることが当面のゼレンカの職務であった。1728年にシュミットが、1729年にハイニヒェンが亡くなると、楽長が空席となったため実質的にゼレンカが楽長職を代行するようになったと考えられている。
しかし1731年にゼレンカに与えられたのは「作曲家」という平凡な肩書にとどまり、1734年には、当時オペラにおいて一世を風靡していたヨハン・アドルフ・ハッセが宮廷楽長に就任した。ゼレンカには1735年に「宮廷作曲家」の称号が与えられただけだった〔1736年に大バッハにも与えられている。 フェーリクス (1999年) p.288〕。新選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世に請願していた550ターラーの年俸の増額も認められなかったが、ハッセが不在の折などには変わらず楽長代行の職務を遂行していた。
1736年に『聖三位一体のミサ(Missa Sanctissimae Trinitatis)』を作曲。1739年、病気から回復したことを神に感謝するために『奉納ミサ(Missa Votiva)』を作曲。前者は演奏時間約60分、後者は約70分と、作品の長大化が目立つようになる。なお、大バッハの『ミサ曲 ロ短調』について、ゼレンカをはじめとするドレスデンのザクセン選帝侯に仕えた作曲家たちのミサ曲との類似性が指摘されている〔小林 (1995年) p.278〕。
1740年から41年にかけて、ゼレンカは『最後のミサ(Missae Ultimae)』という全6曲の連作ミサの作曲を計画した。しかし、第1作『父なる神のミサ(Missa Dei Patris)』(約70分)、第2作『神の御子のミサ(Missa Dei Filii)』(「キリエ」と「グロリア」のみで約40分)、第6作『全ての聖人のミサ(Missa omnium Sanctorum)』(約50分)を完成させただけであった。4年後の1745年12月23日、オーストリア継承戦争プロイセン軍がドレスデンを占領している最中に66歳で死去。翌24日カトリック墓地に埋葬された。
ゼレンカは生涯独身だった。肖像画は伝わっていない〔2007年にフランスで出版されたゼレンカの伝記の表紙には、人物画(詳細不明)があげられている。 ; ''Jan Dismas Zelenka Broché – 22 mars 2007'' 2015年11月2日閲覧。〕〔のサイトには詳細不明の人物画がゼレンカの肖像画として掲載されている。''Czech ensemble performs Jan Dismas Zelenka’s forgotten Easter Mass'' (2013年) 2015年11月8日閲覧。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ヤン・ディスマス・ゼレンカ」の詳細全文を読む




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