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ヤン・ヒース : ミニ英和和英辞書
ヤン・ヒース[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ヤン・ヒース : ウィキペディア日本語版
ヤン・ヒース[ちょうおん]

ヤン・ヒース(Jan Gies, 1905年10月18日 - 1993年1月26日)は、第二次世界大戦中のナチス・ドイツによる占領に抗したオランダレジスタンス活動家。『アンネの日記』の著者アンネ・フランクらの隠れ家での生活を支援していたミープ・ヒースの夫。『アンネの日記』上では「ヘンク・ファン・サンテン」という偽名になっている。
== 略歴 ==
アムステルダム出身。1930年代にオットー・フランクの会社に勤務するミープ・ザントロシェッツと恋仲になる。ミープとともにフランク一家と家族ぐるみの付き合いをした。
1940年10月22日に駐オランダ国家弁務官(総督)アルトゥール・ザイス=インクヴァルト親衛隊中将が「企業登録に関する条例」を官報で公布した。これによりユダヤ系企業は登録せねばならなくなった。明らかに後で「アーリア化」(アーリア人に安値で売り飛ばされる)する布石だったのでオットー・フランクはヤン・ヒースとヴィクトール・クーフレルの名義を借りて「ラ・サンテーズ」という偽装会社を立ち上げている。この会社はいつでもペクタコン商会の事業を引き継げるようになっていた。また1941年にはペクタコン商会は名目上ヤン・ヒースの会社となり「ヒース商会」と名前を代えた。
1941年7月16日にアムステルダム市役所にてミープと結婚。1942年6月にオットー・フランク一家が会社の中の隠れ家で隠れ家生活に入ると妻ミープとともにその生活を支援した。またヤン・ヒースは大戦中ナチス・ドイツのオランダ支配に抵抗するためのレジスタンス組織に参加していた。しかし彼はこの件については戦時中徹底的に秘匿していた。隠れ家支援メンバーの中ではヨハンネス・クレイマンにのみこの事を打ち明けている。また後になってようやく妻であるミープにも打ち明けている。隠れ家メンバーは最後までヤンがレジスタンスだと知ることはなかった。1944年8月4日に隠れ家がゲシュタポに捜査されて隠れ家メンバーが逮捕されたのを知り、午後5時頃に様子を見に駆け付けた。その場に残されていたミープやベップ・フォスキュイルとともにゲシュタポに滅茶苦茶にされた隠れ家の整理を行った。この時にミープが『アンネの日記』を発見している。
戦後、アムステルダム中央駅に勤務した。ここでオットー・フランクの存命を知った。さらに彼と再会する。ミープとヤンは、家も家族も失ったオットーをヒース家に招き、しばらく同居していた。1960年5月4日に隠れ家が「アンネ・フランクの家」として開館された際のオープニング・セレモニーにオットー・フランクやベップ・フォスキュイル、妻ミープとともに出席した。
1993年に妻ミープに先立って死去した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ヤン・ヒース」の詳細全文を読む




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